小林健二作品」カテゴリーアーカイブ

パステルをつくろう

パステル(BT増刊)1993」より画像は複写して使用しております。

パステル(BT増刊)1993」より画像は複写して使用しております。

かけがえのない小さな力で見えない電磁波を探るといった小品から、世界の広さや歴史の重みを圧縮したかのような大作まで・・・小林さんの作品はさまざまな種類の材料と技法の混合でつくられる。作品をひとつのイメージに近づけて行くためには、古典技法や画材の製法から電気的な知識までが必要だ。

アトリエに並ぶ道具や材料の数々もおびただしい。

「道具そのものにも強い関心があるけれど、ぼくの本当の興味は、それらが長い美術史の中でどのように使われてきたかということの方にある。たとえばパステルひとつ例にとっても、いつの時代の画家がどんな色で何をどのように描くために作られたのか、といった条件によって原料の調合や製法もさまざまに違う。そして、そのパステルを作っていた職人が死んでしまうと、同じパステルは2度と作られない。同時にテクニックもまた忘れ去られてしまう運命にある。だから今後、道具をきちんと未来に残して行くとともに技法も伝授する『絵画や道具の博物館』が、美術館と同じくらい必要になってくると思う。」

小林さんはこれらの道具を眠らせることなく、日常的に使いながら製作する。自然界からたまたま今私たちの手元に持ち出されてきた素材たちもまた、全て『生きている』といってもいい。

彼は顔料のもとになる岩石や鉱石の多彩な表情にも思いをはせる。

小林さんの鉱物、岩石コレクションの一部。この中から柔らかいものは顔料にすることができる。

小林さんの鉱物、岩石コレクションの一部。この中から柔らかいものは顔料にすることができる。

「絵を描くことは本来人間にとってプリミティブ(原初的)な行為だということは、古代の洞窟画を見てもわかるよね。鉱物や植物の中から顔料として色彩を探りだし操ることは、天然にある共通の現象を使ったひとつの言語、アレロパシー(物質言語)だと思うんだ。さらに生命を持っていないはずの鉱石が、実はとても有機的な結晶構造を持っていたり、ラジオの電波の検波装置になったりすることを考え併せると、『モノ』にも心があるんじゃないだろうか。」

この時自分で画材を作ることが、絵を描くことに通じる。ともに『モノ』を愛することとして・・・。どんなものとも話ができるというミラクルをファンタジーではなくアートが可能にする。

では、どんな時に、なぜパステルを自作するだろう。

「パステルは柔らかく固着性に乏しく、しかも油で粒子が包まれた油彩絵の具と違って顔料が裸に近く、デリケートに反応しやすいので、技法的に紙の上で色を混ぜるにはあまり適さない。だからたくさんの色数を用意しなければならないんだけれど、それはちょっと大変。それから同じ色を大量に欲しい時。手で持って壊れず、紙の上で粒子に砕ける硬さに固めるのも難しいけどね。」

画材を作るということは、作品を作ることにつながる。現代で失われた『モノを作る』ことの本質が、ここにはある。

「鉱石や薬品から大きな発見が生まれる瞬間は、この世界に自分が自分として生まれてきた理由を見つける旅や実験なんだ。アートやアーティストが『人工』を語源とするものならば、それはいつの世でも、『天然』に対しても対峙できる知恵を持った人でありたいと思うんだ。」

自然の神秘の囁きに耳を澄ますように。自分だけのパステル作りから広がる宇宙へ。

少しづつ買い集めてきたという小林さんのパステルやコンテ。 今では手に入らないものもあるが、日常的に使うことで、その貴重な色は今生きていると言える。お気に入りはセヌリエのiriseというパールカラーのオイルパステル21色セット。

少しづつ買い集めてきたという小林さんのパステルやコンテ。
今では手に入らないものもあるが、日常的に使うことで、その貴重な色は今生きていると言える。お気に入りはセヌリエのiriseというパールカラーのオイルパステル21色セット。

材料は大きく分けて次の三種類。 1、顔料。色の元になるもの。 2、体質顔料。パステルのボディそのものを作る。カオリン(クレーや白土といった粘土の仲間)やムードン(炭酸カルシウム)、ボローニャ石膏(天然の硫酸カルシウム)など。 3、結合材。粒子を膠着させるメディウム。アラビアゴム、トラガカントゴム、膠(ニカワ)など。 これらの材料はたいてい大きな画材店や薬局で手に入れることができる。配合比は自分の好みでブレンドしながら選ぶのが良い。難しいことではあるが、そこに自作する意義がある。

材料は大きく分けて次の三種類。
1、顔料。色の元になるもの。
2、体質顔料。パステルのボディそのものを作る。カオリン(クレーや白土といった粘土の仲間)やムードン(炭酸カルシウム)、ボローニャ石膏(天然の硫酸カルシウム)など。
3、結合材。粒子を膠着させるメディウム。アラビアゴム、トラガカントゴム、膠(ニカワ)など。
これらの材料はたいてい大きな画材店や薬局で手に入れることができる。配合比は自分の好みでブレンドしながら選ぶのが良い。うまくいかない時もあるかもしれないけど、そこに自作する意義があると思う。

1, 作りたい色の顔料と体質顔料(カオリン、ムードン、ボローニャ石膏など)の粉末を均一に混ぜる。体質顔料が多くなると白っぽくなる。

1, 作りたい色の顔料と体質顔料(カオリン、ムードン、ボローニャ石膏など)の粉末を均一に混ぜる。体質顔料が多くなると白っぽくなる。

2,柔らかく握れるくらいになるように蒸留水を混ぜる。料理に例えるならば蕎麦をうつ感覚の柔らかさと言える。

2,柔らかく握れるくらいになるように蒸留水を混ぜる。料理に例えるならば蕎麦をうつ感覚の柔らかさと言える。

3,結合材としてアラビアゴムを用意。水につければ二日で溶ける。あるいは膠の場合は水につけて膨潤させ、40-50度で湯煎して溶かす。

3,結合材としてアラビアゴムを用意。水につければ二日で溶ける。あるいは膠の場合は水につけて膨潤させ、40-50度で湯煎して溶かす。

4,2に3をほんのすこしづつ足してペースト状に。微量だとソフト、多めだとハードな物ができる。色々試して自分にあった硬さを探す。

4,2に3をほんのすこしづつ足してペースト状に。微量だとソフト、多めだとハードな物ができる。色々試して自分にあった硬さを探す。

5,スラブ(大理石の板)か厚めのガラス板の上にのせて、練り混ぜる準備をする。木や金属の板だと違う顔料やゴミが混ざったりする恐れがある。

5,スラブ(大理石の板)か厚めのガラス板の上にのせて、練り混ぜる準備をする。木や金属の板だと違う顔料やゴミが混ざったりする恐れがある。

6,モレット(ガラス製の絵の具をねる道具)かスパテラ(金属製のへら)で練る。成分的に金属を嫌う顔料もあるのでモレットが便利。

6,モレット(ガラス製の絵の具をねる道具)かスパテラ(金属製のへら)で練る。成分的に金属を嫌う顔料もあるのでモレットが便利。

7,均一に練られたパテ状のものを手でパステル一本分の大きさに固める。時間をかけすぎるとボロボロに乾いてしまうので注意。

7,均一に練られたパテ状のものを手でパステル一本分の大きさに固める。時間をかけすぎるとボロボロに乾いてしまうので注意。

8,板を使ってパステルを転がし、円筒形のかたちに整える。あまり細くしすぎると、乾いたときに折れやすいものになってしまう。

8,板を使ってパステルを転がし、円筒形のかたちに整える。あまり細くしすぎると、乾いたときに折れやすいものになってしまう。

9, さらに自作の木型で挟んで成型するのも良い。固まって木型にくっつかないように、このとき紙で手製のラベルを巻いておくと良い。

9,さらに自作の木型で挟んで成型するのも良い。固まって木型にくっつかないように、このとき紙で手製のラベルを巻いておくと良い。

10,完成です。セラドングリーンと薄めのコバルトブルーのハンドメイドのパステルが出来上がった。ホコリのない場所で24時間ほど乾かす。余ったものはラップに包めば保存もできる。

10,完成です。セラドングリーンと薄めのコバルトブルーのハンドメイドのパステルが出来上がった。ホコリのない場所で24時間ほど乾かす。余ったものはラップに包めば保存もできる。

リサイクル

a,失敗して砕けてしまったものや小さくなって使いきれなかったパステルのかけらを、色別に分けて撮っておけば再利用ができる。

a,失敗して砕けてしまったものや小さくなって使いきれなかったパステルのかけらを、色別に分けてとっておけば再利用ができる。

b,作りたい色を考慮しながら、混ぜ合わせるものを選び出し、できるだけ細かく砕いて均一な粉末にする。ホコリやゴミの混入に注意。

b,作りたい色を考慮しながら、混ぜ合わせるものを選び出し、できるだけ細かく砕いて均一な粉末にする。ホコリやゴミの混入に注意。

c,2に戻って同様に適量の水とわずかな結合材を足して、混ぜて練る。あとは同様の手順で完成させる。見事にリサイクルできる。

c,2に戻って同様に適量の水とわずかな結合材を足して、混ぜて練る。あとは同様の手順で完成させる。見事にリサイクルできる。

「眠りへの風景:脈拍」 エンコスティックによる作品(自作のパステルも使われている) 1000X1335X55mm 1992

「眠りへの風景:脈拍」
エンコスティックによる作品(自作のパステルも使われている)1000X1335X55mm 1992

*1993年「パステル(BT増刊)」より抜粋編集し、作品以外の画像は記事を複写して使用しております。

KENJI KOBAYASHI

 

 

リアリティの解明

小林さんの仕事に関して、まず特徴的なのはその活動の広さ、例えば、美術の中だけでも様々な方法を取られているし、他に音楽、映像、文章など様々な分野に渡っていますが、そのあたりご自分ではいかがですか?

「ものを作ったり表現しようとする上で、何か規則や取り決めがあると窮屈に感じてしまう。一人の人間として生きていたいと思い、その発露として何かを作りたいと思うから、方法や様式に無理に当てはめようとは考えていない。」

[ETAPHI] VIDEO WORK:KENJI KOBAYASHI(小林健二映像作品) presented by PICTURE LABEL & Music Design

[ETAPHI]
VIDEO WORK:KENJI KOBAYASHI(小林健二映像作品)
presented by PICTURE LABEL & Music Design

{SUPER DORMEN] mixed media 4500X3200X2200(mm) 1987 会場に巨大なモニュメントのような作品を製作し、その下のモニターでビデオ作品を流した。

[SUPER DORMEN]
mixed media
4500X3200X2200(mm) 1987
会場に巨大なモニュメントのような作品を製作し、その下のモニターでビデオ作品を流した。


“Erbium” written and vocal+guitar by Kenji Kobayashi from Kenji Channel on Vimeo.

*上記は中学生の時に作った音楽を2016年6月のトークショーの時に、オマケミニライブとして初披露。その時の動画です。(ライブ映像に新たに画像を足して編集)

銀水色版[みづいろ](愛蔵本) 体裁:B6変形/上製本/P136/活版印刷/函入り  装丁:小林健二 見返し及び挿入紙は、巻き見返しという技法を使い、本のノドまで自然に開くとこができます。また函は丸背の本がきれいにおさまるように、天地部分を同じような丸みでカットしてあります。全体に白くあえかな感じでありながら、しっかりとした美しい本です。 1993年に松明堂極光書房より発行されましたが、長らく品切れとなっておりました。其の後よせられた要望により、銀河通信社版として2005年に銀水色の活版印刷にで出版されました。 (これは実話にもとずき、綴られた本です。小林健二が子供の頃よりノートなどに書き留めていた「みづいろ」や「銀の水路」は、1979年に一度まとめられました。それを「夜と息」を加え1993年に「みづいろ」として出版されました。)

銀水色版[みづいろ](愛蔵本)
体裁:B6変形/上製本/P136/活版印刷/函入り 
著者+装丁:小林健二
見返し及び挿入紙は、巻き見返しという技法を使い、本のノドまで自然に開くとこができます。また函は丸背の本がきれいにおさまるように、天地部分を同じような丸みでカットしてあります。全体に白くあえかな感じでありながら、しっかりとした美しい本です。
1993年に松明堂極光書房より発行されましたが、長らく品切れとなっておりました。其の後よせられた要望により、銀河通信社版として2005年に銀水色の活版印刷にで出版されました。
(これは実話にもとずき、綴られた本です。小林健二が子供の頃よりノートなどに書き留めていた「みづいろ」や「銀の水路」は、1979年に一度まとめられました。それを「夜と息」を加え1993年に「みづいろ」として出版されました。)


CRYSTAL-ELEMENTS from Kenji Channel on Vimeo.

組曲[結晶]:suite”Crystal” composed by Kenji Kobayashi・published by RUTIL TWIN RABEL

*1980年頃よりカッセトテープなどに録音してきた小林健二の曲の数々を、2007年にCDとして編集しました。その音楽と小林の結晶作品[CRYSTAL ELEMENTS]とのコラボ動画です。

 

一人の人間として生きていたいとおっしゃいましたが、表現したいと思ったその時に、観客は小林さんにとってどんな存在なのですか?

「難しいことだから、すぐにはうまく答えられないんですが・・・まず自分の心の中に湧いてくる、それまで見たことのないヴィジョンや世界を、とにかく物質化したり具体化させて自分がまず見て見たいという欲求がある。それからきっと作り始めるけど、最終的にはそれで人や外界とのコミュニケーションの手段になるという思いがあるから、もし自分がたった一人で山の中で暮らしているとしたら、作るという必然性がぼくの中の個人的なものだけになってしまうと思う。だからぼくにとって社会との関係をはっきりさせてくれるような・・・。」

絵画技法はどう修得したのですか?

「絵画技法というとぼくの場合、どこまでか分からないけど、ぶきっちょコンプレックスが色々な道具を集めさせたり、好奇心が強いから色々調べ物をしたりすることも、結局は自分の興味のあるがままにやっているから、何においても独学になっちゃう。」

多くの作家はイメージをどう物質化するかで悩むと思うのですが、小林さんの場合はどうですか?

「それは難しいですよ。イメージと現実化した作品との間には多くの嘘も出てきてしまう。ただその「うそ」を積み重ねていかに「ほんと」に近づけるかということなんでしょう。」

作品集の中に「今あるものは、死が支えている」という小林さんの言葉が大変印象的だったのですが、このことについてもう少し説明してください。

「ぼくたちが着ている服の素材にしても、毎日食べているものにしても、ぼくたちの生活に欠かせないものはほとんど、動物や植物たちからもらったものでしょ。生きているものは、その命を投げ出してくれたものたちに、まさに支えられているんじゃないかな。だけど、スーパーに置いてあるきれいにパックされたものしか知らなかったら、その死の存在を想像できない。命が奪われるというドラスチックな光景をまのあたりにしていたら、その命への感謝は自然に生まれるだろうと思う。「死」から目を背けるような社会全体の流れがあるかな?

人間は自然を凌駕するのではなく、調和すべきだと目覚めてきた現代。

でも昔から日本人は自然や天然とともに生きて来たと思っている。それをあえて「反自然」へと生活の方向を変えて、素晴らしい過去の知恵を捨ててしまっているかのようだ。

木を切り倒すとき、木はなされるがままに、まるで拒むことなどないかのように死んでゆく。でもそんな時に木の叫びのようなものを聞いたような、そんな気持ちが人間の心の中に起こったら、やはりむやみに切り倒してはいけないんだという思いもわくかもしれない。

なぜ宇宙があるのか、終わりがあるのか、なぜ生きているのか・・・。難しい問いの前に、ぼくらの日常の流れに「死を意識することで、知ることができることがある」と、生の意味を変えてくれるように思う。」

「私たちは自分たちの故郷を鉛色に変えつつありながらも理想郷をいつも夢見ている。」 木、鉛、鉄、紙、電子部品、キャンバスに油彩(電磁石を使った特殊な仕掛けにより前にある作品の球が浮いている) 2300X1300X2000mm  1989

「私たちは自分たちの故郷を鉛色に変えつつありながらも理想郷をいつも夢見ている。」
木、鉛、鉄、紙、電子部品、キャンバスに油彩(電磁石を使った特殊な仕掛けにより前にある作品の球が浮いている)2300X1300X2000mm 1989

リアリティということに対してどのようにお考えですか?

「リアリティ・・・・その言葉の意味がちょっと分かりづらいけど・・・。でも自分の生活に強く影響を与えた体験はあります。それは中学生のころ、不眠症が続いた後、一瞬の眠りにつくことができたとき、よっぽど今のこの現実より現実的な感じというか・・・その瞬間に体験したことがものすごくリアルだったんです。

光の粒子によって自分もその中に還元されていうような気持ちになった・・・。

その後童話のような文章を書いた、それは「ひかりさえ眠る夜に」と言って、ちょうどこんな感じなんだけど。

最初光しかない宇宙があって、時間も距離もない。だけど、宇宙自身が「自分とはなんだろう?」と思った時、光の一部が物質化するために集まりだし、光の速さでさらに外側に広がるから、人にはきっとビックバンに見えた。この光量子、高分子化してゆく事象には、細胞や多細胞を過ぎて小動物や人間に至ってもその存在への疑問は残される。光としての自由なイメージは残っていても、人はなかなか自由ではない。でもいつか全ての疑問が消えて光に戻ってゆく。実は自由な光が深い物質化の眠りの中で見たものが、ぼくたちのこの現実だという内容。結構この光の最初の願望こそが、生物が共有できる感覚ではないかと今でも変わらず思っているところがあるんです。」

*1991年のメディア掲載記事より抜粋編集し、画像は新たに付加しています。また「ひかりさえ眠る夜に」という個展が福井市美術館で開催された時の会場画像と図録に書かれた小林健二の文章を同時に下記します。

[ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT-ひかりさえ眠る夜に] 2003 福井市美術館での個展

[ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT-ひかりさえ眠る夜に] 2003
福井市美術館での個展会場の一部

個展の詳しい内容はhttp://www.kenji-kobayashi.com/2003onanight.html

 

15才のときの出来事

「ひかりさえ眠る夜に」という言葉は、高校1年の頃の原稿用紙やノートに書いた童話っぽい物語から、タイトルをそのまま使ったものです。その文章を書いたきっかけと言えば当時見た「夢?」あるいは白昼夢のような一連の幻によるもので、しかしそれは夢と言ってもいつも浅い眠りの時に見るものとは大きく異なっていて、ぼくを驚かせ、印象的で、子供の頃から惹きつけられてきたすべての要素を持っていました。

その一連の経験は、何か神秘的な宗教体験とも思えないし、自分の上にだけに起こった特別な出来事とも考えませんでしたが、その鮮烈な衝撃はまるでローラーコースターに乗っているような強い興奮と、あたかも深海の中でしばらく気を失っていたかのように感じる神妙な気持ちがないまぜになって、ぼくを混乱させました。しかしながらそれは同時に、その後今に至るまでにも他には無い陶酔感をぼくに残したのです。

この客観的に観たら目立ちたがり屋の作り話に感じられるだろうことについて、自分なりにいろいろ考えたものです。

ぼくは中学の頃より不眠に悩まされ、幾種類かの薬を服用していたために、その副作用による一種の幻覚であったのかもしれないとも思え、専門医に相談したこともありました。彼は少し笑いながら「君の薬には君に夢を見させる力があるとは思いづらいけど、それが君にとって良い夢ならよかったんじゃない?」と軽くあしらわれた感じでした。

15才と言えば、楽しい事や悩みなども友人や誰かと共有したいととりわけ思う年頃だったと思います。しかし、ぼくはその「夢?」について誰かにすぐに話を聞いてもらおうとはしませんでした。

それにはわかりやすい2つの点があったからです。1つ目には「どんな友人だって他人の夢などにとても興味なんか持てないだろう」と思ったことと、2つ目に、その出来事について話すとするとぼくの表現力や語彙はあまりに稚拙だと知っていたからです。

しかし、その体験は一人のちっぽけな人間にとって、その後の生き方に確かに何がしかの影響を与えたのです。つまり幼い頃、兄からもらった望遠鏡で月や星を見て将来天文学者になろうと考えたり、タテ笛が好きだったというだけで笛吹きになろうと夢想したり、そんな風見鶏のように日々の関心で変わるそれまでの気分屋を、その出来事が何かの方向を探し続けたいと、非力ながら考えさせはじめたことは本当でした。

子供の時から絵を描く事は好きではあっても怪物やジョウロのようなへんてこなものしか描かない人間が、できるならずぅっと絵を描いていたい、そして宇宙や星の涯にある世界の事を考えたり、あるいはまだ巡り会えないでいる誰かや何処かのことを想い続けて手紙を書くような、そんな途方もないことをやり続けたいと勝手に確信してしまったのです。まさにそれほどその「夢?」はぼくにとってすばらしく、また美しかったのです。

ぼくは時々「夢見がちな人」というような評価を受けることがありますが、それはどうなのだろうと思いもします。なぜなら絵を描いたり、造形作品を作ることは思いのほか現実的です。技術的にも時には経済的にも時間的にも、あらゆる面に於いて生々しい壁は立ちはだかるものだからです。

でも、ぼくはこの仕事を通し子供の時からの内省的な自己を、外の世界と交通させたいと願ったわけですから、確かに「夢見がち」なのかも知れません。

人間にはもともと「本当の事」を探し続けようとする一種の特性のようなものがあって、それはまた人間の本質的なところでもあるとぼくには思えることがあります。でもそれによって人が担う事もたくさんあるのでしょう。「この世」と人間が感じているものが、人間のためにだけ存在しているとは思いづらく、逆に自分たち人間の社会を支えるために多数のものを犠牲にし、その上に成り立っている事を多くの人間たちは知っています。ですから人間がこの世の全体的成り立ちに就いて思考する努力を惜しんでしまったとしたら、この地球から人間がある日消え去ってしまった方がどんなにか、この星を楽にするような気がしてしまうのです。

約半世紀を生きている自分が夢のことを人生にまでふくらませて話していることが、どれほど愚かしく思われても仕方の無い事と十分にわかっているつもりです。しかし、的確なことばを見つけることはできませんが、「神」と一言で呼ぶことができない、この世を知りたいと願う「何か」によって深い眠りについた「ひかり」たちの夢の一部に、ぼくらの知る世界があり、それによって「この世」は生まれたと感じるような子供たちが世界に広がったとしたらどうなのか想像してみたいのです。この世界がすべて「ひかり」によって夢見られたものであるとしたら、いかなるすべての人の目や心にとらえ得る世界は、それこそ世界が探し続けているものであり、ひとりぼっちで風景を眺めていることも、どんなに辛さを感じている時でさえ、それはこの世が探していることの断片を常に担っているのであり、意味の無い人間は誰もいなく、またいかなる瞬間も必然性を孕んでいるということではないでしょうか。

すべての始まりはひとつのもので、あえていうなら「時間」という奇跡によって変成しているようにみえる現象であり、自も他も無く本来とても深いところで「全く同じもの」だと認識したら、その子供たちの心に宿る世界には「差別」、「戦争」、「略奪」といった、自分が自身をまるで奪い合い傷つけ合うのと同じ事が、どれほど無意味な事とその瞳に映るのではないでしょうか。

それこそ「ひかり」のもと居た場所までは、まだまだ遠いところであったとしても、そんな探すべき何かを知った子供たちや大人たちが地球人であったとしたら、それは遠メガネみたいに小さなものでも無数に集まれば巨大な望遠鏡となるように、まるで色とりどりの花々が空を見上げているように思えるでしょう。

宇宙は広く果てしなくても、きっと人間は孤独ではなく、友人たちはお互いに探し合っていていつか出会える筈だからです。

宇宙がそれぞれを発見し合い、それぞれの多くの謎を解き明かし連帯し合い、不変で永遠な最も安らいだもと居た場所へと還ってゆくようになったとしたら、それはとても素敵なことに思えるのです。

あの15才から30年以上経った今でさえ、偶然に出会った一連の夢のような出来事から与えられた記憶の方が、少しも色褪せる事もなく日々生活している日常より遥かに生き生きとしていて、表しきれない「本当の世界」のような気がしてならないのです。

小林健二

*[ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT]図録より

 

KENJI KOBAYASHI

 

 

 

プレパラートと森の友人

東京オリンピックの次の年の夏休み、大掃除の日、家の中を片していると、木の箱に入った顕微鏡が出てきた。

兄のものであった。彼は”これはお前にあげるよ”と無造作にくれたが、ぼくにとっては何か重くて高そうで、彼が気を変えない内に自分用のボロボロの机の下に押し込んだ。その時の何か、パスポートを手にしたような、そんなワクワクする実感は今も忘れない。

最初は、隣組の友達とそこいらの葉っぱや砂や死んだ小さな虫なんかを見ていたりした。

もしぼくにこの時、科学者的才能があったなら、小さな発見でもできたのだろうが・・・当時すでに「恐竜博士」という輝かしい称号を持っていたぼくは、何がなんでも恐竜にはじまり、恐竜に終わる日々をおくっていた。一心不乱に恐竜の本を顕微鏡で覗く姿を見る家族は、さぞため息の出たことだろう。

科学実験をする小学生の頃の小林健二。偶然に発見された古い写真。

実験をする小学生の頃の小林健二。偶然に発見された古い写真。

五年生になって科学クラブに入ったぼくは、簡易なプレパラートの作り方を習ったりして得意になっていた。しかし、生来の不器用者には、永久プレパラート(バルサムなどを使用した保存性の高い顕微鏡標本)の制作は苦手で、気泡が抜けなかったり、またカヴァーグラスがバルサムで盛り上がりすぎて、対物レンズで標本を壊したり、恐竜博士には、なかなかままなら無い大人の世界への長い道のりが、そろそろ見え隠れしていた。そのうち相棒が遠方へ行ってしまったことがきっかけとなって、顕微鏡はほこりをかぶり始めたのだった。

偶然に発見された数枚の写真の一枚。服装から中央で顕微鏡をのぞいている少年は、小林健二と思われる。

偶然に発見された数枚の写真のうちの一枚。服装から中央で顕微鏡をのぞいている少年は、小林健二と思われる。

いつか時間があったらゆっくりじっくり研究?三昧してやるんだと思いながらも、身近に起こる由無事が10代を通り来させて、20代も後半になった1984年の夏ころ、少しづつだけどアトリエの一番奥の(そう、いつの間にか絵ばかり描くのが生活になっていた)小さな部屋の1隅に、始めたばかりの電気の測定器や試験機に混じって、光学光源器の力をかりて、夜な夜なプレパラートを再び光らせることができはじめていた。

正直に言ってぼくは美術的な事象に対して、特に影響を求めたことはない。しかし、子供の時から憧れの科学者たちの世界に、強く引かれていたと思う。書籍であっても今にいたるまで、小説などはほとんど読むことはないが、「子供の科学」や「恐竜図鑑」は言うに及ばす、河出の サイエンス・スタディー・シリーズの「水の伝記」や、ガモフの「不思議の国のトムキンス」そして三宅泰雄氏の「空気の発見」など、言い出せば枚挙にいとまがない。特に三宅氏の「空気の発見」は未だ言うなれば座右の書出会って、ぼくのバイブルのように今でもぼくに勇気を与え、どれだけ心を癒してくれたか分からない。とりわけその核心的なところを一部引用するならば、第1章の終わりのこんなところだろうか・・・

「(前略)ガリレオがはじめて空気に目方があることを発見してから、アヴォガドロの分子説まで、およそ、250年が経過しました。その間、多くの天才たちが、一枚一枚、空気の秘密のベールをあばいていきました。イタリー人も、フランス人も、イギリス人も、またドイツ人も、同じ目的のために一生を捧げました。私たちが、これまでに学んだのは、この目的のために一生を捧げた多くの人々のうちの、もっとも、偉大な人々と、その人たちの仕事についてでありました。しかし、私たちは、この人たちによってのみ、科学が進んだと考えではなりません。否、これらの偉人たちのために、かれらが高くとび上がるために、かたい土台をきずいた、数多くの名もない研究者のあったことを忘れてなりません。みなさん、私は君たちの中から、第二のラヴォワジェ、第二のドルートンの生まれることをどんなにか、楽しみに待ち望んでいることでしょう。しかし、私がもっと君たちにのぞみたいことは、たとえ、むくいられることがなくとも、また、たとえめざましい研究でなくとも、科学の巨大な殿堂のかたすみに、ただ一つでも誠実のこもった石をおく人に、なってもらいたいということです。」

小林健二の顕微鏡など

小林健二の顕微鏡など

小林健二個展[EXPERIMENT1]会場画像(Gallery MYU)

小林健二個展[EXPERIMENT1]会場画像(Gallery MYU)

小林健二個展[EXPERMENT1] 小林自作のプレパラートがピンク色のバックライトとともに会場に展示され、多重焦点式の自作プレパラートを中央の偏光顕微鏡にて観察できる。

小林健二個展[EXPERMENT1]
小林自作のプレパラートがピンク色のバックライトとともに会場に展示され、多重焦点式の自作プレパラートを中央の偏光顕微鏡にて観察できる。

小林健二自作プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

ぼくを引きつけるイメージの中には、これら科学の持っている、さらに拡大して言うなら、自然や宇宙の持っている巨大な無名的現象にあるのかもしれない。科学者と名のつく人々に於いても、エジソンやレントゲンいざ知らず、パーキンやガロアやテスラではあやしくなって、日本人でも丘浅次郎や河野広道のこととなると、名前はともかくその人の仕事ということになると、知っている人を探す方が難しいだろう。しかし、彼らはぼくにとっては強い影響と感動を与えてくれた人々であった。ある意味では、本来なら目に見えにくい、見過ごしてしまいそうなものを見つめ続けた人たちなのかもしれない。

泥のような実験廃棄物から鮮やかなすみれ色「モーブ」を発見したウィリアム・パーキン。

その数学的天才を持ちながら周囲には認められることもないまま、弾圧的時代に革命思想と政治運動に身を投じ、殺害されてしまったエバリスト・ガロア。

世界の平和を夢み、高周波振動の電気的共鳴を利用して、地球上ならどこでも空間からエネルギーを取り出せる「世界システム」を考案しながらも、そのイメージを理解されることなくホテルの一室で孤独のうちに最期を迎えたニコラ・テスラ。

その素晴らしい発明はたくさんの人命を救う手助けをしながらも、「私の発見は全人類のためのものだから、私個人の利益の内ではない」という言葉とともに、特許などによる莫大な利権を断固拒絶して、貧困の中で生涯を閉じたヴィルヘルム・コンラット・レントゲン。

苔虫などを研究し、その中に貴賤貧富の差もなく争いもない、犯罪もなくそれを防止する道徳、宗教、法律、警察、政府なども必要でないという無政府協和の楽園を夢みた、丘浅次郎。

雪虫などを研究し、森を愛し、数々の生態系より理想的集団社会を夢みながらも、当局によって弾圧、そして投獄。その生前に自著の出版を見ることなく他界した、河野広道。

誰もが知っている発明王、トーマス・アルバ・エジソンでさえ、その晩年には、サイエンティフィック・アメリカンのインタビューに対してこんなことを答えている事実はあまり知られていない。

「もし私たちの人格が死後も生きつづけるものなら、私たちがこの世で得た記憶や知性、それにいろいろな能力や知識もそのまま保たれていく、と仮定することは、十分理論的であり科学的であると思います。したがって、死後の人格が生前この世に残していった人々と交信したがっていると考えてもよいはずです。私は、死後の人格は物質に変化を与え得ると考えたい。もしこの考えが正しいなら、あの世にいる人々が変化させたり動かしたり操作したりできるような精巧な装置さえ作れば、それはきっと”何か”を記録するに違いありません。」

そう、人知れず有ることに、ぼくはどんなにか思いを馳せ、また引きつけられることか。繁華な街よりはふた筋裏の静かな路地、平積みの新本よりは忘れられたような古書。自分自身ゴロゴロしているのが好きなせいか、人込みや雑踏、騒音やせわしなさがどうしても苦手だ。だから一年の内でも気のおけない友人たちと会ったりするのがせきのやまなのだ。

個展開催にあたり同時に発行されたART BOOK「EXPERIMENT1」

個展開催にあたり同時に発行されたART BOOK「EXPERIMENT1」
部数限定で製作されたもので、内容は小林自作プレパラート+データファイル+顕微鏡写真(ポジフィルム)、小冊子、多重焦点プレパラートのカードセット(製作+撮影:小林)が特殊ビニールケースに収められたもの。

*上記の記事はART BOOK「EXPERIMENT1(発行Gallery MYU)」の左下オレンジ表紙の小冊子から編集抜粋し、画像は新たに付加しています。また、下記テスラについての記事は小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しています。

自身が発明した装置の前で本を読むニコラ・テスラ(Nikola TESLA)

自身が発明した装置の前で本を読むニコラ・テスラ(Nikola TESLA)

同調回路の発明者

コイルとコンデンサーによる同調回路は、 2人の研究者によって個別に発想されたと考えられます。その2人とはコヒラー検波器の発明者でもある科学者オリヴァー・ロッジ(1851-1940)と、不遇の天才科学者ニコラ・テスラ(1856-1943)です。

オリヴァー・ロッジは1898年に同調回路(共振回路)の特許を取得し、この発明は1911年にマルコーニ社によって買収されます。彼は英国のリヴァプール大学で物理学の教授をしながら原子核理論を研究していましたが、そのかたわら当時超感覚を有すると考えられていた「パイパー夫人」をも研究し、死後の世界との対話にも興味を持っていたようです。

現代において科学や物理はこのように「霊媒」という現象に対して何ら関与するカテゴリーを持ちませんが、 19世紀から20世紀にかけての科学や物理はむしろ積極的にこれらに関わり、実際的な発明の着想をそこから得ていたこともあるようです。

もう 1人のニコラ・テスラと言えば、磁束密度を表わす単位テスラ(記号T)に名を残す、クロアチア生まれのセルビア人です。

彼は現代電気動力に使われているインダクションモーターの発明者であり、また高周波の高圧を二次側に発生させることのできるテスラコイルと呼ばれる変圧器にもその名を残しています。そして彼は現代の電気学の基礎ともなる交流理論に対しても多くの貢献をしたといわれ、また「テロートマトン」という現在のラジオコントロールシステムの元となる考え方を示したり、「ジアテルミー」「ハイパーサミア」と呼ばれる一種の電磁波健康治療具など実用性の高い発明も多く残しました。

その中には当時、無線通信の同調回路としては特許こそ取得しませんでしたが、多くの共振原理を利用したものがありました。そしてそれはおそらく1892年以前にテラスが電磁波における共振理論をすでに考えていたことを暗に証明していると思えます。

テスラの共振同調機構を使った発想のもっとも顕著な例は「世界システム」でしょう。それは地球を一つの導体としてとらえ、さらに彼の考える地球定常波 earth wave vibrationと共振する高周波振動として電力を電送し、アンテナとアースさえあれば地球のどこにいても空間から随時電力を取り出せる(まるで鉱石ラジオのように)というものです。

この考えはその是非を問われる以前に、実験中止に追い込まれます。それはその考え自体の限界というよりも、地球全体を一つの共同体としてとらえるような視点が国境や国の利害を超えて発想することのできない事業家や国家にとっでは理解しがたく、そのような人意がまず大きな障壁になったといえるかもしれません。

この稀代の大発明家は、無線による通信、電話、あるいは高周波による現代の科学に多大の影響と貢献を与えながらも、なかば意図的に人間の歴史から無視されてきたように思えます。その理由は定かではありませんが、彼のあまりに早すぎたいくつかの発見や発明は、電気の世界に不慣れな一般大衆に必要以上の脅威を与え、そして時に彼よりも世間的にうまく立ち回れる少数の人々によって巧妙に利用されたふしがあります。

彼は20世紀初頭にはカリスマ的な栄光のなかに輝きの人生を送りながらも、1943年1月7日ニューヨークにあるホテルの一室で、一文無しの老人としてこの世を去ることになります。その後、マルコーニとの間で長年争われてきた無線通信の基本特許に関する裁判でテスラ側は勝利を得、「同調回路」の真の発明者として名実ともに認められることとなります。彼の死から半年後、 1943年6月のことでした。

KENJI KOBAYASHI

 

 

複焦点プレパラート製作法について

光学的な顕微鏡の観察は、実体顕微鏡のようなシステムを除くと、ほとんどがプレパラートの製作と関係している。そして、プレパラートと言っても、動物、植物、鉱物、金属、樹脂など、それぞれに独自な技法を、用する場合も多く、生物系では一時的な観察の為のものから、何年もの保存に耐えるものまで、種々の作り方がある。

スンプ法(セルロースの板を薬品で膨潤させ、試料に押し付け、型をとって、その表面を観察する方法)や、封入法(シリコンゴムなどで立体物を封入して観察する方法)まで入れると多様だ。ホビーとしてはあまり聞いたことはないが、ぼくは結構楽しんでいる。まして、それらを色々に染め分けてみたり、また組み合わせてみたりすることは、無限に発想を与えてくれる。

このようにして作られたプレパラートは、本来のサイエンスとしての意味はすでに逸脱せざるをえないものでも、コハクの中の昆虫のようだったり、あるいは多くの色彩を持つが故に、まるで宝石のように輝いて見える。

また、複数の切片を積層して作るプレパラートは、顕微鏡のように焦点距離の極めて抵深度のものでは、複数の焦点を持つことになる。もう少し解りやすく言えば、一枚のプレパラート上で、動物細胞を観察中に焦点を変えて行くと、植物細胞にピントがあって、あたかも動物細胞が、植物細胞へと変化したような不思議な錯覚を得ることになる。

最近実験中?なのは、薄く培地を引いたLSIのマイクロフィルムの上を移動する細胞性粘菌の実態撮影である。技術的にはなかなか困難なことであるのに、科学的進歩には何ら貢献しないわけだ。しかしながら、情報が氾濫する時代の中で、見ようと意志しなければ見えない世界は、ぼくにとっては、どういうわけか安心を与えてくれるのだ。

投影型偏光顕微鏡 このような小型(投影型では)のものを最近あまり見なくなった。今回のようなギャラリーでの展示に使用するのには上部の投影板(像が映る曇りガラスの部分)は暗く、照明用の ハロゲンランプの発熱の為必要な、強制冷却ファンの音が大きく、必ずしも理想的ではないかもしれない。個人的観察の為に入手したもので、比較的安価出会ったのと、何よりこの奇妙な形体に引かれたところがあった。

投影型偏光顕微鏡
このような小型(投影型では)のものを最近あまり見なくなった。今回のようなギャラリーでの展示に使用するのには上部の投影板(像が映る曇りガラスの部分)は暗く、照明用の ハロゲンランプの発熱の為必要な、強制冷却ファンの音が大きく、必ずしも理想的ではないかもしれない。個人的観察の為に入手したもので、比較的安価出会ったのと、何よりこの奇妙な形体に引かれたところがあった。

光学的単眼顕微鏡 この顕微鏡は長年使用しているものだ。少々ガタがきているので、時間のある時にゆっくり分解掃除をしてやりたいと思っている。これはまた、決して高価でも最新型でもないが、通常のプレパラートの観察では十分力を発揮してくれる。上の写真では、写真撮影用のカメラアダプターとカメラが取り付けてある。高倍率の実際の撮影には、あと外部にケーラー照明の光源が必要だろう。

光学的単眼顕微鏡
この顕微鏡は長年使用しているものだ。少々ガタがきているので、時間のある時にゆっくり分解掃除をしてやりたいと思っている。これはまた、決して高価でも最新型でもないが、通常のプレパラートの観察では十分力を発揮してくれる。上の写真では、写真撮影用のカメラアダプターとカメラが取り付けてある。高倍率の実際の撮影には、あと外部にケーラー照明の光源が必要だろう。

円筒ミクロトーム これは植物などの切片材料でプレパラートを製作するときには欠かせないものだ。丸い穴の所に試料をはさみ入れ、シリンダーの部分をマイクロゲージのように回転させると、わずかにせり出して来るので、そこのところを下にあるカミソリで薄くそいで切片を作る。このミクロトームでおよそ1メモリ=10マイクロの精度を持っている。

円筒ミクロトーム
これは植物などの切片材料でプレパラートを製作するときには欠かせないものだ。丸い穴の所に試料をはさみ入れ、シリンダーの部分をマイクロゲージのように回転させると、わずかにせり出して来るので、そこのところを下にあるカミソリで薄くそいで切片を作る。このミクロトームでおよそ1メモリ=10マイクロの精度を持っている。

小林健二[EXPERIMENT1]

薬品など
プレパラートを作るためにはスライドガラスやカヴァーグラス、及び薬品などが必要になる。ここの説明はさけるが、以下のようなものがある。バルサム、エタノール、ホルマリン、ファーマー溶液、カルノア液、ファン液、アセトカーミン液、酢酸オルセイン液、ゲンチアナヴァイオレット、ズダンスリー、サフラニンファストグリーン、ギムザ液、ヘマトキシリン液、ジェンダー液、シャウジン液、スンプ法材料等々。

ミクロトームを使用してプレパラートを作るとき、最初よくやるのが、葉や茎の断面だ。でもこれはなかなか奥が深くて、染色法二よっては、本当に鮮やかな色彩に出来上がる。左の写真はツバキの葉の断面だけど、ときにおいてはちょっと変な地球外的生物や、有機的未確認飛行物体のように見えて面白い。

ミクロトームを使用してプレパラートを作るとき、最初よくやるのが、葉や茎の断面だ。でもこれはなかなか奥が深くて、染色法によっては、本当に鮮やかな色彩に出来上がる。上の写真はツバキの葉の断面だけど、ときにおいてはちょっと変な地球外的生物や、有機的未確認飛行物体のように見えて面白い。

これは動物の硬骨組織と淡水植物プランクトンのケイ藻類との重複プレパラートだ。もちろん写真ではどちらか一方しか焦点が合わないわけで、この場合は硬骨組織にピントが合っている。 科学的根拠はほとんどないが、硬骨を形成するカルシウムは、生命現象を地球上に強く関係付けている物質である。有機的な物質というとぼくはどうしてもカルシウムを連想するのは、それによって作られる動物の骨、人も恐竜も共にその外形はいつも有機的だからかもしれない。 また、ケイ藻などは名の示す通り、細胞膜にはペクチン質を基本にしていても、それ以外はケイ酸化合物によって作られている。 ケイ酸イオンは、ぼくにはシリコンウエファーなどを連想させて、無機的なイメージが強い。共に高倍率では、結晶的な構造が強くて、生物における精神や意識の所在を、ふと考えさせられる。だからこのプレパラートは、ぼくにとっての無機と有機の生物学的結合なんだ。

これは動物の硬骨組織と淡水植物プランクトンのケイ藻類との重複プレパラートだ。もちろん写真ではどちらか一方しか焦点が合わないわけで、この場合は硬骨組織にピントが合っている。
科学的根拠はほとんどないが、硬骨を形成するカルシウムは、生命現象を地球上に強く関係付けている物質である。有機的な物質というとぼくはどうしてもカルシウムを連想するのは、それによって作られる動物の骨、人も恐竜も共にその外形はいつも有機的だからかもしれない。
また、ケイ藻などは名の示す通り、細胞膜にはペクチン質を基本にしていても、それ以外はケイ酸化合物によって作られている。
ケイ酸イオンは、ぼくにはシリコンウエファーなどを連想させて、無機的なイメージが強い。共に高倍率では、結晶的な構造が強くて、生物における精神や意識の所在を、ふと考えさせられる。だからこのプレパラートは、ぼくにとっての無機と有機の生物学的結合なんだ。

白雲母(Muscovite)と普通輝石(Augite) これらは共に珪酸塩鉱物である。ただ、前者フィロ珪酸塩と後者イノ珪酸塩出会って、偏光顕微鏡で観ると、見え方はまるで違う。しかし、両方共とても美しく、数多くの色を発色する。このプレパラートはただ単純に合わせて見ると、奇麗かなと思って作ってみた。

白雲母(Muscovite)と普通輝石(Augite)
これらは共に珪酸塩鉱物である。ただ、前者フィロ珪酸塩と後者イノ珪酸塩出会って、偏光顕微鏡で観ると、見え方はまるで違う。しかし、両方共とても美しく、数多くの色を発色する。このプレパラートはただ単純に合わせて見ると、奇麗かなと思って作ってみた。

上記以外のものでは、雲母の中のミジンコ。(次回の記事でご紹介予定です)

鉱物中に生命体が封じ込められていることは通常ありえないが、載物台を回転させて、種々の色が現れると、まるで時間が止まった水の中を泳いでいるようで面白い。あるいは、分子雲を写したフィルムの上の夜光虫、種々の花粉の咲き乱れる中の小さなテクタイト。銀河のように見える扁平上皮細胞の上の赤いゾエアは、ロボットの様だ。網膜の断面の横にリシウム鉱が偏光しているのも、とてもきれいだ。植物の切片や鉱石の薄片が紡いでゆく世界。ぼくの心を虜にしてしまう。

解説+写真:小林健二

*1993年の小林健二ART BOOK[EXPERIMENT1]に書かれた文を編集し、当時の写真がモノクロだったため、画像もモノクロで掲載しております。

KENJI KOBAYASHI

 

 

「懐かしい」って不思議な言葉

懐かしいと言ったら、ぼくはやっぱり駄菓子屋さんかな。安いけど工夫された楽しさが溢れていた。いつもお店は子供たちでいっぱいで、知らない同士でもすぐ友達になれたものだった。それから模型屋と科学博物館だね。

模型は飛行機で、日本やヨーロッパのものが好きだった。透明な風防の中を覗いていると、誰かが座っていそうで、中から見える風景を想像してワクワクしていたんだ。学校をズル休みして時々行った科学博物館は古めかしくて重厚で、それがまたなんとなく神秘的で素敵だった。

一人一人の懐かしい思い出はそれぞれに個人的なことが多いけれど、雑誌やテレビ番組なんか同世代だと共通していたりするよね。ぼくは昭和32年生まれだから、鉄腕アトムやウルトラQの時代かしら。

健二製作のプラスチックモデル(スケール1/72)

健二製作のプラスチックモデル(スケール1/72)

雑誌なら「少年」そして「マガジン」や「サンデー」も懐かしい。でもテレビの「恐怖のミイラ」や「マリンコング」「アウターリミッツ」や「世にも不思議な物語」なんかはどうだろう。ぼくは不思議なことがとりわけ好きでよく見ていた。

そういえばこの「懐かしい」って言葉も不思議だね。なぜかっていえば、それは記憶や思い出の中でもきっといいもの、あるいは今となってはいいものばかりなんだ。英語や仏語でも思い出を表す語は色々あると思うけど、思い出すのは必ずしもいいことばかりでないから、いい感じの思い出、素晴らしい記憶といったように、一語で「懐かしい」といえる言葉って他の国ではあまりないようだものね。

「懐かしさ」って全てを肯定しているからこそ口をついて出てくるんだと思う。

そんな文化を持っているぼくらの国なのに、今は何もかもが早く過ぎていき、少しみんな疲れているんじゃないかしら。だから今よりも時間がもっとゆっくり流れていた昔見たような風景なんかに出会うと、思わずそこでしばし休息したくなるんじゃないかしら。

小林健二

*2000年のメディア掲載記事を編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

*下記は富山県立近代美術館での展覧会図録に寄せられていた文を抜粋し、これも画像は新たに付加しています。

「TOYAMA ART NOW-ポーランドと日本」の図録

「TOYAMA ART NOW-ポーランドと日本」図録の小林のページの一部

子供の頃読んだ本の中に、片方の目にだけある不思議な薬を塗ると、普段ならみえないたくさんの宝石が見える、というような内容のものがありました。結局その主人公は、もっとよく見ようとして両目に塗ってしまい、何も見えなくなってしまうのですが、その本の挿絵を見てはしゃいでいるものがありました。ぼくはとりわけその絵が好きでした。

ぼくはまた、古代の世界やそんな時代に書かれたものかもしれない書物とはいかなるものかと考えたり、ある日机の引き出しを開けるとその中で青い発光体が静かに浮かんでいるといった幻について想ったりしていることが好きです。

ぼくはそのような隠れたとこや見えにくい場所に、何か素敵な宝物があるような気がしてなりません。そして、そんな目に見えない透明な通信で交わせる世界があることを信じているのです。

小林健二

2000年に開催された別の個展での展示

2000年に開催された別の個展での展示。この時は広い会場が3部屋に分かれていて、第一室は小林健二のアトリエを彷彿とさせる展示内容になっていました。

小林健二作品

小林健二作品「セフェルイエッジラーの書」シリーズ

小林健二作品「ゾハールの書」

小林健二作品「ゾハールの書」

KENJI KOBAYASHI

 

小林健二の”光の詩学”

小林健二の表現領域は、タブロー、オブジェ、イベント、インテリア、ビデオ、写真、音楽、、、とジャンルを問わず活動を広げてゆく。小林のアトリエには、彼が少年時代から集めたり、自分で製作した道具類が2万点余、さながら錬金術士の工房のように詰まっている。父親が刀鍛冶だったので、子供の頃から道具は身の回りに溢れていたという。

ー道具は文化そのもの

「道具って、素材や作るものに対して自分がどう関わるか、自分なりのイメージがないと意味がないんですよ。道具を考えるということは、いわば自分を考えるということなんです。そして自分を考えるということは、結局人間を考えるということなんです。

たまに古道具屋でぼくも見たことのない道具に出会うんです。それでしばらく使っていると分かり始めてくるんです。そうすると、こういう考え方もあるんだと感じるわけです。道具を理解することは、文化そのものを理解することなんです。

今は電動工具に代表されるように道具が世界的に簡便化されてきていますよね。道具が簡略化されるのは、ある意味では目的意識がはっきりするけど、目的に対してになっていくものが少なくなっていくことですね。自分自身が手を動かし、自分自身が味わったりする一番大切な領分が簡略化されるから、結果的には作業が早く終わるし苦労も少ない。その分喜びも伴わないかもしれないから愛着もわきにくいかな。

文化というものの基本は、機能や実利や合理だけでは説明できない、人間の一番大切なものを担っていると思うんです。そういうものを基本に置かないと、美術も何もない、、、やっぱり作るという行為と人間と作られるものの関係は、太古から原理的に全然変わってないわけですよ。」

[UTENA]special edition 1984 小林健二が高校生の時に見た”光の夢”を元に作られた本(自家製本)

[UTENA]special edition  1984
小林健二が高校生の時に見た”光の夢”を元に作られた本(革装による自家製本)

[UTENA]edition of 20 1984 すべての森羅万象は光より生まれ光に還ってゆくという、小林独自の宇宙創造に対する発想による詩集。この画像は20部限定で作られた。その後2008年にIPSYLONより限定50部で再販されている。

[UTENA]edition of 20 1984
すべての森羅万象は光より生まれ光に還ってゆくという、小林独自の宇宙創造に対する発想による詩集。この画像は上の特装本と同じ内容で20部限定で作られた。その後2008年にIPSYLONより限定100部で再販されている。

小林健二のART BOOK

ー光より生まれ、光へと還る

小林は以前「UTENA」という詩画集を作ったことがある。そこには”光の詩学”とでも呼べる宇宙生成論が綴られている。

「ぼくには宇宙ビックバン(大爆発)説というのはにわかに信じられない。ぼくはこう思っている。

宇宙にはかつて光が蔓延して光しかない状態があった。そういう状態であれば、時間もなければ距離もない。そしてそういうものが自分を知りたいと思う気持ちを抱いたとします。自分とは一体なんだろう。こう言う気持ちが集まって光子化していく。やがて量子化が始まり、素粒子なども作っていく。そうやって宇宙の物質化が始まる。

人間という存在も、光が物質化して人間になった。人間が何で森羅万象に興味を抱いているかといえば、人間は宇宙が自分を知りたいと思ったから生まれた現象だからです。光というのは自由だった。なぜなら無限だから。無限であって永遠だから。ぼくたちはどんな時でも永遠の自由を求めるじゃないですか。なぜかといえば、光の残存した意識があるからだと思う。すなわち、ぼくたちが夢見ているのは光であって、逆に言うと、ぼくたちは光が見ている夢かもしれない。光の見ている夢だってことになれば、実はぼくたちがここで感じる森羅万象は「夢なのかもしれない。そして、やがて光という最も安定した形に帰着するものが、」いうならば涅槃なのかもしれない。

ぼくの思考の根底にはこういうヴィジョンもあるんですよ。」

少年時代から天文学、考古学に熱中した小林の語る”光の詩学”は、宮沢賢治やノヴァーリスと同質な世界を夢見る資質を感じさせて魅惑的だ。

小林健二掲載記事

1991年頃の取材記事の一部。

 

ー生き方で夢を与えることもできる

「今は、ぼくたちが文化や理想を考えた時、そもそも人間は何のためにいるのかを考えなければいけない時代になってきている。

歴史を学ぶとしても、なぜ人間は過ちを繰り返すのか、、、何でこんな過ちを目の前にして無力でしかないのかという苛立ちを考えなければ、すべての文化は始まらないと思う。

文化とは人間が生きるための術(すべ)ですからね。

生き方で夢を与えるってのもできると思うんです。ぼくはあと何年生きていられるかしれないけれど、生きているうちにとにかく一生懸命、イキイキと仕事をしていくこと、そういうことが唯一、自分ができることなんじゃないかなと思っています。」

小林健二という現象は、現代にとって何を意味するのだろう。膨大な道具と技術を背景に製作に励む小林の情熱は、空疎な二種に分極した工芸と芸術を新たな統合へ回帰しようとする営みにも見える。

小林が十代でみた夢の記憶は、やがて2003年、福井市美術館での個展「ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT」開催へと繋がってゆく。

小林が十代でみた夢の記憶は、やがて2003年、福井市美術館での個展「ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT」へと繋がってゆく。

「ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT」

「ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT」

*1989年のメディア掲載記事を抜粋編集し、画像は新たに付加しています。

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KENJI KOBAYASHI