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少年技師

小林健二の書庫の一角

少年技師

この聞き慣れない昔風の言い方に、ぼくはわくわくすることがあります。大正から昭和の初めころの少年雑誌に時々登場するこの言葉に、「小国民」のように軍国的な時勢に通じるものを感じる人もいるかもしれません。でもぼくはここに挙げるような広告にこころを通わせていたそのころの少年たちのことを考えてみたいと思います。

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より

たとえばこの「模型の国」のところには「電気機関車、モーター、モーターボート、蒸気模型、模型部分品、顕微鏡、天体望遠鏡、カメラ、映写機、ラジオ、模型工作用用具その他模型に関する一切を収めた写真満載四六判三十頁余のとでも素晴らしいカタログ」と説明してあり、「模型飛行機と組立」のところには「四十余頁の飛行機模型に関する三百数十の部分品と三十余種の飛行機模型とを収めたカタログ」と書いてあります。ともに郵便代を送れば無料で進呈されるとも書いてあります。これは昭和8年の「子供の科学」に載った広告の一部ですが、このほかたくさんの少年や子供に向けた工作関係の広告が出ています。

そしてこれらの記事や本を目を輝かせて読んでいたのが「少年技師」たちだったのです。

昭和8年の「子供の科学」の巻末。文中のものとは違うが『模型の国』の紹介ページです。

昭和初期からの「子供の科学」。小林健二の蔵書から何冊か抜粋しています。

昭和の初め頃の「科学画報」や「科学知識」。多くの科学雑誌が発刊された。

昭和初期頃の科学雑誌の巻末ページ

たとえばモーターを作るとしましょう。簡単なものなら輸のように数回巻いた導線と永久磁石によって作ることができます。これを電池につないで最初に指で回転を助けであげると、パタパタと回り始めます。いかにも頼りなく、そして何の役にも立ちません。でもいかにも回転して当然に思える市販のモーターとは違って、天然の神秘の力がそこに息づいているのが感じられます。

現代においてこんな役に立たないモーターを作っている少年技師たちはいるのでしようか。

実はぼくはそんな効率や結果ばかりにとらわれない少年技師と出会いたいために、この本を書いているのです。モーターや鉱石ラジオ、顕微鏡や天体望遠鏡をとおして天然の持っている力と出会うことで、たましいの本来持っている好奇心を人間の世の息詰まるような規則や限界から開放してくれると信じているからです。

モーターにしても鉱石ラジオにしても、原点に近づいていくほど構造はシンプルになっていき、作るものがそれぞれの多様性を感じさせる出来映えになるのは不思議です。小さくてきちっとしたもの、大きくてゆるやかなもの、その人の個性や価値観が反映したからにほかなりません。

自分とは違った魅力、自分には思いつかなかった考え方、いろいろなものと出会っていきながら、どれもその人なりの面白さにあふれていることに気づくことでしょう。そして本当は「美しい色」という特別なものがあるのではなくて、さまざまな色があるからこそ、そのハーモニーによって生み出される美しさがあることに気づいていくのでしょう。

ですから時には回りもしないモーターやできそこないの望遠鏡を作り、聞こえもしないラジオに耳をかたむける・・・少年技師の目は天然の神秘に触れるまで、いやその不思議な力を知った後にも、輝きを失うはずはありません。そしてそんなまなざしは「孤独の部屋の住人」を誰一人として置き去りにしたりしないのです。

小林健二の書棚には昔の工作本などが見える。

少年工作全集。昭和初期に資文堂(東京麹町)から出版された少年に向けて書かれた工作本。
(小林健二の蔵書より)

少年工作全集「図解やさしいラジオの作り方(小泉武夫著・資文堂・昭和6)」の巻末ページ。心惹かれるシリーズのタイトル、さらに工作材料の提供など実際の工作に役立つフォローも嬉しい。
(小林健二の蔵書より)

小林健二がしばしば紹介している本「少年技師の電気学」(科学教材社・山北藤一郎著)

初期の「無線と実験」はラジオ工作には欠かせない雑誌で、現在、内容は時勢にあったものになり「MJ」という雑誌名で発行されています。(小林健二の蔵書より)

大正・昭和初期から中期頃の雑誌には、『鉱石ラジオ』の記事も時々登場していました。

図解ラジオ文庫。昭和28年前後に誠文堂新光社から出版されたラジオ専門の工作本。(小林健二の蔵書より)

*小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しており、画像は新たに付加しています。なお、画像のキャプションはこちらで付け加えております。

KENJI KOBAYASHI

ぼくのすすめたい本

生きていくということは、それ自体が人間にとって宇宙の真理を探っていくことになるのです。

ぼくのすすめたい本のなかに「宇宙をとく鍵」というのがあります。この本では宇宙の力や電磁力といった宇宙のニュアンスを知ることができます。そして、宇宙の真理が、実はどこにもないということに気づくのです。なぜなら、人間が生きていくこと自体が、宇宙の真理を見つけようとしていることだと思うし、人間の無意識の行動が、実は人間自身の感性や精神を探る現象だったりする。全ての謎解きの答えが書いてある本は、一つも存在しないと思います。

ただ、ぼくたちが何も考えないでいたら、地球の形成自体がなくなってしまう。歴史の意味も不必要になってしまうでしょう。BBC科学シリーズのこの本は、古本屋に行けば見つかるので、ぜひ読んでほしい。

宇宙の不思議と同じように、神秘や超能力があります。これらは、人間が本来生きるために備わってきたもののような気がする。人間は生命を維持しようとするがために、自分たちが証明できない能力を持っているはずなんです。これは、不思議でもなんでもなくて、事実、地球上に人間が存在していることからもわかる。

例えば、自分の細胞膜を全部解いていったとしても、自分というものを見つけることは非常に難しいし、感性や精神を取り出すことはできないでしょう。

宇宙というものは、人間や自然が全体の一部であってそれらがその中に存在しているということ。ぼくたちが想像できる善や悪も、この宇宙に、あるいはぼくらの中に持っていることでもあるわけだから。

自然が破壊されていくことが、今、自分には関係のないことではないとの認識も必要かもしれない。

ぼくたちの生命は、ただ単純に存在しているのではなく、過去のいろいろな積み重ねによってあるものだから、それをぼくたちだけで終わらせてしまうことは許されないでしょう。

ぼくたちがなぜ生きているか、なぜ生きようとしているのか。そう問いつづけることは、自分とは何かを探ることに他なりません。答えの出ない問いを、これから先の人たちに送り綱いでいく。それがぼくたちの生きている意味のような気がする。

小林健二(1989)

小林健二

「アンネの童話集」小学館
アンネ・フランク

ナチスの迫害を受けたアンネ・フランクの童話集。この物語には、物事に対する鋭い洞察力が含まれています。人間は、人種で感性に差があるとは思えないし、特殊な状況の中でしか、このような物語が生まれないわけではないと思う。戦争に生きた人の残した形を読み取ることは決して無駄にならないのです。

「空気の発見」角川文庫
三宅康雄

空気の疑問をわかりやすく、多角的に解き明かした科学の本。著者は科学教育が科学史と結びついてなされることを主張する三宅泰雄。本書は、空気をつかむまでに長い苦労があったことをエピソードを交えて優しい文章で語られている。空気の重さや色、窒素や酸素の発見など、40のテーマからなっている。

「星の王子さま」岩波書店
サンティク・ジュペリ
*画像はフランス版

幼い頃手にしたことがある「星の王子さま」は、意外と読んでいない人が多いかもしれません。読んでは見たけれど、感じ取れない人がいるような気がするのです。もう一度読んでみることをお勧めしたい。かつて子供だったことを忘れてしまう大人にならないために、「星の王子さま」は大切な一冊です。

「ゴジラ(初代ゴジラ)」東宝 *書籍ではないですが、小林健二に影響を多大に与えた映画です。

これは怪獣物語ではない。戦争の苦しみと憎しみと悲しみから生まれたゴジラは、実は被害者なのです。つまり「ゴジラ」は反戦の映画だった。海底に眠っていた恐竜が、水爆実験の影響で怪物と化し、東京を襲う。

*ほかにもこの記事の中では、おすすめ映画として「2001年宇宙の旅」をあげています。

*1989年のメディア掲載記事を抜粋編集し、画像は新たに付加しています。

KENJI KOBAYASHI

 

 

プレパラートと森の友人

東京オリンピックの次の年の夏休み、大掃除の日、家の中を片していると、木の箱に入った顕微鏡が出てきた。

兄のものであった。彼は”これはお前にあげるよ”と無造作にくれたが、ぼくにとっては何か重くて高そうで、彼が気を変えない内に自分用のボロボロの机の下に押し込んだ。その時の何か、パスポートを手にしたような、そんなワクワクする実感は今も忘れない。

最初は、隣組の友達とそこいらの葉っぱや砂や死んだ小さな虫なんかを見ていたりした。

もしぼくにこの時、科学者的才能があったなら、小さな発見でもできたのだろうが・・・当時すでに「恐竜博士」という輝かしい称号を持っていたぼくは、何がなんでも恐竜にはじまり、恐竜に終わる日々をおくっていた。一心不乱に恐竜の本を顕微鏡で覗く姿を見る家族は、さぞため息の出たことだろう。

科学実験をする小学生の頃の小林健二。偶然に発見された古い写真。

実験をする小学生の頃の小林健二。偶然に発見された古い写真。

五年生になって科学クラブに入ったぼくは、簡易なプレパラートの作り方を習ったりして得意になっていた。しかし、生来の不器用者には、永久プレパラート(バルサムなどを使用した保存性の高い顕微鏡標本)の制作は苦手で、気泡が抜けなかったり、またカヴァーグラスがバルサムで盛り上がりすぎて、対物レンズで標本を壊したり、恐竜博士には、なかなかままなら無い大人の世界への長い道のりが、そろそろ見え隠れしていた。そのうち相棒が遠方へ行ってしまったことがきっかけとなって、顕微鏡はほこりをかぶり始めたのだった。

偶然に発見された数枚の写真の一枚。服装から中央で顕微鏡をのぞいている少年は、小林健二と思われる。

偶然に発見された数枚の写真のうちの一枚。服装から中央で顕微鏡をのぞいている少年は、小林健二と思われる。

いつか時間があったらゆっくりじっくり研究?三昧してやるんだと思いながらも、身近に起こる由無事が10代を通り来させて、20代も後半になった1984年の夏ころ、少しづつだけどアトリエの一番奥の(そう、いつの間にか絵ばかり描くのが生活になっていた)小さな部屋の1隅に、始めたばかりの電気の測定器や試験機に混じって、光学光源器の力をかりて、夜な夜なプレパラートを再び光らせることができはじめていた。

正直に言ってぼくは美術的な事象に対して、特に影響を求めたことはない。しかし、子供の時から憧れの科学者たちの世界に、強く引かれていたと思う。書籍であっても今にいたるまで、小説などはほとんど読むことはないが、「子供の科学」や「恐竜図鑑」は言うに及ばす、河出の サイエンス・スタディー・シリーズの「水の伝記」や、ガモフの「不思議の国のトムキンス」そして三宅泰雄氏の「空気の発見」など、言い出せば枚挙にいとまがない。特に三宅氏の「空気の発見」は未だ言うなれば座右の書出会って、ぼくのバイブルのように今でもぼくに勇気を与え、どれだけ心を癒してくれたか分からない。とりわけその核心的なところを一部引用するならば、第1章の終わりのこんなところだろうか・・・

「(前略)ガリレオがはじめて空気に目方があることを発見してから、アヴォガドロの分子説まで、およそ、250年が経過しました。その間、多くの天才たちが、一枚一枚、空気の秘密のベールをあばいていきました。イタリー人も、フランス人も、イギリス人も、またドイツ人も、同じ目的のために一生を捧げました。私たちが、これまでに学んだのは、この目的のために一生を捧げた多くの人々のうちの、もっとも、偉大な人々と、その人たちの仕事についてでありました。しかし、私たちは、この人たちによってのみ、科学が進んだと考えではなりません。否、これらの偉人たちのために、かれらが高くとび上がるために、かたい土台をきずいた、数多くの名もない研究者のあったことを忘れてなりません。みなさん、私は君たちの中から、第二のラヴォワジェ、第二のドルートンの生まれることをどんなにか、楽しみに待ち望んでいることでしょう。しかし、私がもっと君たちにのぞみたいことは、たとえ、むくいられることがなくとも、また、たとえめざましい研究でなくとも、科学の巨大な殿堂のかたすみに、ただ一つでも誠実のこもった石をおく人に、なってもらいたいということです。」

小林健二の顕微鏡など

小林健二の顕微鏡など

小林健二個展[EXPERIMENT1]会場画像(Gallery MYU)

小林健二個展[EXPERIMENT1]会場画像(Gallery MYU)

小林健二個展[EXPERMENT1] 小林自作のプレパラートがピンク色のバックライトとともに会場に展示され、多重焦点式の自作プレパラートを中央の偏光顕微鏡にて観察できる。

小林健二個展[EXPERMENT1]
小林自作のプレパラートがピンク色のバックライトとともに会場に展示され、多重焦点式の自作プレパラートを中央の偏光顕微鏡にて観察できる。

小林健二自作プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

小林健二自作の多重焦点式プレパラート

ぼくを引きつけるイメージの中には、これら科学の持っている、さらに拡大して言うなら、自然や宇宙の持っている巨大な無名的現象にあるのかもしれない。科学者と名のつく人々に於いても、エジソンやレントゲンいざ知らず、パーキンやガロアやテスラではあやしくなって、日本人でも丘浅次郎や河野広道のこととなると、名前はともかくその人の仕事ということになると、知っている人を探す方が難しいだろう。しかし、彼らはぼくにとっては強い影響と感動を与えてくれた人々であった。ある意味では、本来なら目に見えにくい、見過ごしてしまいそうなものを見つめ続けた人たちなのかもしれない。

泥のような実験廃棄物から鮮やかなすみれ色「モーブ」を発見したウィリアム・パーキン。

その数学的天才を持ちながら周囲には認められることもないまま、弾圧的時代に革命思想と政治運動に身を投じ、殺害されてしまったエバリスト・ガロア。

世界の平和を夢み、高周波振動の電気的共鳴を利用して、地球上ならどこでも空間からエネルギーを取り出せる「世界システム」を考案しながらも、そのイメージを理解されることなくホテルの一室で孤独のうちに最期を迎えたニコラ・テスラ。

その素晴らしい発明はたくさんの人命を救う手助けをしながらも、「私の発見は全人類のためのものだから、私個人の利益の内ではない」という言葉とともに、特許などによる莫大な利権を断固拒絶して、貧困の中で生涯を閉じたヴィルヘルム・コンラット・レントゲン。

苔虫などを研究し、その中に貴賤貧富の差もなく争いもない、犯罪もなくそれを防止する道徳、宗教、法律、警察、政府なども必要でないという無政府協和の楽園を夢みた、丘浅次郎。

雪虫などを研究し、森を愛し、数々の生態系より理想的集団社会を夢みながらも、当局によって弾圧、そして投獄。その生前に自著の出版を見ることなく他界した、河野広道。

誰もが知っている発明王、トーマス・アルバ・エジソンでさえ、その晩年には、サイエンティフィック・アメリカンのインタビューに対してこんなことを答えている事実はあまり知られていない。

「もし私たちの人格が死後も生きつづけるものなら、私たちがこの世で得た記憶や知性、それにいろいろな能力や知識もそのまま保たれていく、と仮定することは、十分理論的であり科学的であると思います。したがって、死後の人格が生前この世に残していった人々と交信したがっていると考えてもよいはずです。私は、死後の人格は物質に変化を与え得ると考えたい。もしこの考えが正しいなら、あの世にいる人々が変化させたり動かしたり操作したりできるような精巧な装置さえ作れば、それはきっと”何か”を記録するに違いありません。」

そう、人知れず有ることに、ぼくはどんなにか思いを馳せ、また引きつけられることか。繁華な街よりはふた筋裏の静かな路地、平積みの新本よりは忘れられたような古書。自分自身ゴロゴロしているのが好きなせいか、人込みや雑踏、騒音やせわしなさがどうしても苦手だ。だから一年の内でも気のおけない友人たちと会ったりするのがせきのやまなのだ。

個展開催にあたり同時に発行されたART BOOK「EXPERIMENT1」

個展開催にあたり同時に発行されたART BOOK「EXPERIMENT1」
部数限定で製作されたもので、内容は小林自作プレパラート+データファイル+顕微鏡写真(ポジフィルム)、小冊子、多重焦点プレパラートのカードセット(製作+撮影:小林)が特殊ビニールケースに収められたもの。

*上記の記事はART BOOK「EXPERIMENT1(発行Gallery MYU)」の左下オレンジ表紙の小冊子から編集抜粋し、画像は新たに付加しています。また、下記テスラについての記事は小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しています。

自身が発明した装置の前で本を読むニコラ・テスラ(Nikola TESLA)

自身が発明した装置の前で本を読むニコラ・テスラ(Nikola TESLA)

同調回路の発明者

コイルとコンデンサーによる同調回路は、 2人の研究者によって個別に発想されたと考えられます。その2人とはコヒラー検波器の発明者でもある科学者オリヴァー・ロッジ(1851-1940)と、不遇の天才科学者ニコラ・テスラ(1856-1943)です。

オリヴァー・ロッジは1898年に同調回路(共振回路)の特許を取得し、この発明は1911年にマルコーニ社によって買収されます。彼は英国のリヴァプール大学で物理学の教授をしながら原子核理論を研究していましたが、そのかたわら当時超感覚を有すると考えられていた「パイパー夫人」をも研究し、死後の世界との対話にも興味を持っていたようです。

現代において科学や物理はこのように「霊媒」という現象に対して何ら関与するカテゴリーを持ちませんが、 19世紀から20世紀にかけての科学や物理はむしろ積極的にこれらに関わり、実際的な発明の着想をそこから得ていたこともあるようです。

もう 1人のニコラ・テスラと言えば、磁束密度を表わす単位テスラ(記号T)に名を残す、クロアチア生まれのセルビア人です。

彼は現代電気動力に使われているインダクションモーターの発明者であり、また高周波の高圧を二次側に発生させることのできるテスラコイルと呼ばれる変圧器にもその名を残しています。そして彼は現代の電気学の基礎ともなる交流理論に対しても多くの貢献をしたといわれ、また「テロートマトン」という現在のラジオコントロールシステムの元となる考え方を示したり、「ジアテルミー」「ハイパーサミア」と呼ばれる一種の電磁波健康治療具など実用性の高い発明も多く残しました。

その中には当時、無線通信の同調回路としては特許こそ取得しませんでしたが、多くの共振原理を利用したものがありました。そしてそれはおそらく1892年以前にテラスが電磁波における共振理論をすでに考えていたことを暗に証明していると思えます。

テスラの共振同調機構を使った発想のもっとも顕著な例は「世界システム」でしょう。それは地球を一つの導体としてとらえ、さらに彼の考える地球定常波 earth wave vibrationと共振する高周波振動として電力を電送し、アンテナとアースさえあれば地球のどこにいても空間から随時電力を取り出せる(まるで鉱石ラジオのように)というものです。

この考えはその是非を問われる以前に、実験中止に追い込まれます。それはその考え自体の限界というよりも、地球全体を一つの共同体としてとらえるような視点が国境や国の利害を超えて発想することのできない事業家や国家にとっでは理解しがたく、そのような人意がまず大きな障壁になったといえるかもしれません。

この稀代の大発明家は、無線による通信、電話、あるいは高周波による現代の科学に多大の影響と貢献を与えながらも、なかば意図的に人間の歴史から無視されてきたように思えます。その理由は定かではありませんが、彼のあまりに早すぎたいくつかの発見や発明は、電気の世界に不慣れな一般大衆に必要以上の脅威を与え、そして時に彼よりも世間的にうまく立ち回れる少数の人々によって巧妙に利用されたふしがあります。

彼は20世紀初頭にはカリスマ的な栄光のなかに輝きの人生を送りながらも、1943年1月7日ニューヨークにあるホテルの一室で、一文無しの老人としてこの世を去ることになります。その後、マルコーニとの間で長年争われてきた無線通信の基本特許に関する裁判でテスラ側は勝利を得、「同調回路」の真の発明者として名実ともに認められることとなります。彼の死から半年後、 1943年6月のことでした。

KENJI KOBAYASHI

 

 

[見えない世界へ通じる魅力]ラジオ工作

ぼくは電子工作が好きなので秋葉原の部品屋によく出かける。家電などを扱う表通りに対して、その場所は電飾もなく、昔の「ヤミ市」とはこんな感じかと思わせるところが多い。タタミ一畳ほどのブースのような小さな店には、数え切れない電子部品が並べられていて、それと同じ数の夢まで詰め込まれているようだ。世の中に二つとないこんな不思議な世界を、ちょっと興味のある方は観光してみたらどうだろう。

東京秋葉原ラジオデパートのショップガイド、1994年のもので、CQ出版社が出している。この建物の中に電子部品を扱うブースがひしめいている。

東京秋葉原ラジオデパートのショップガイド、1994年のもので、CQ出版社が出している。この建物の中に電子部品を扱うブースがひしめいている。

しかしながら、この「電子人生横丁」に入る人の数も年々減ってきていると聞く。確かに最近、ぼくもこの場所で子ども達と出会わなくなったと思う。

そんなわけだからラジオ工作の雑誌は今ではほとんどが廃刊になったり、オーディオ雑誌へと変貌していたりするというのもうなずける。「 ラジオの製作」はそんな中、よくぞ続いているものだと感心する。早速7月号を見てみると、まず別冊付録が挟まっていて、「組み立てようぼくだけのパソコン」とある。

「ラジオの製作」電波新聞社

「ラジオの製作」電波新聞社

「ラジオの製作」1998年7月号

「ラジオの製作」1998年7月号

お金さえ出せば何でも手に入る時代になっても、かつての工作少年を思い出すようで面白い。記事には「ポケット・ラジオの製作」「タッチ・ランプの製作」「ステレオアンプの製作」と電子工作が9種も載っている。余暇の過ごし方がイマイチと感じる人がいるなら、これらの実用性?もある電子工作にふけってみるのも一考だろう。回路図が読めなくても作れるような配慮は嬉しい。

「エレクトロニクス入門」というコーナーでは、デジタル回路について、一般読者にもわかりやすい連載もある。日頃「もう少し電気に強かったら」と嘆いている方には打って付けではないだろうか。最近は「理科離れ」「手を動かさない日本人」とか言われるが、同じフレーズは戦前の本にも顔を出していた。基本的にはあまり変わっていないのだから、落ち込む前にこんな雑誌を覗いてみたらどうだろう。ひょっとするとヤミツキになるかもしれない。

電子の世界というと、難しい数式が支配する「合理性の親玉」というイメージがあるようだが、「ラジオ工作」に代表される電子工作について言うならば、それは当てはまらないと思う。むしろ詩の世界に通じるものがあって、その向こう側に、電化社会の便利さに追いやられてしまった大切なものを発見できるかもしれない。

本来、電子も電波も目には見えないものである。しかしかつて、幾多の少年たちの夢や期待を育んだ透明な通信の世界は、現代に生きるぼくたちに、便利なものだけでは見つけられないものがあることを伝えているような気がする。

小林健二

昭和20年代の頃には「ラジオ」とつくタイトルの雑誌が、いろいろ出版された。

昭和20年代(1950年頃から)の頃には「ラジオ」とつくタイトルの雑誌が、いろいろ出版された。

大正時代の電気の雑誌。鉱石ラジオに関する記事もあり、「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」を書くにあたって、古書店巡りに明け暮れた頃、何冊か昔の本や雑誌に巡り会えた。そのうちの二冊の雑誌。

大正時代の電気の雑誌。鉱石ラジオに関する記事もあり、「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」を書くにあたって、古書店巡りに明け暮れた頃、何冊か昔の本や雑誌に巡り会えた。そのうちの二冊の雑誌。

「ラジオの製作」は1954年に創刊、1999年に休刊になりました。また秋葉原の東京ラジオデパートの中では、現在営業していないお店もあります。

*1998年のメディア掲載記事を抜粋編集し、画像は新たに付加しています。

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KENJI KOBAYASHI

工作世界が教える身近な不思議との交感

「本を読んで心が癒されることがあったとしたら、それはとっても素敵だと思う。ぼく自身リラックスするのには、本はいつだって欠かせない。特に読む本は科学や工作や宇宙の本が好きだ。せわしない社会の中で生きるのは、人間たちが決めたルールであっても、知らず知らず身も心もがんじがらめになってることがあると思う。そんなよどんだ空気の底からサッパリとした気分で深呼吸するのに”星の世界”や”身近な不思議”は、ぼくにとっても大事なんだ。」

「昔は作る人と使う人がとても近いところにいたと思う。自分の感じた身近な不思議が好奇心となって何かを作らせる。そして使う人にもその物を通じてワクワクした心が通い合う。だからごくありふれた日常からも、物や人、作られたものを構成する木や石や金属、ひいては大地や大気に繋がって、いつでも自然と連絡する回路が確かめられるんだ。」

少年向けの工作本や科学雑誌は、今も氏の”癒しのバイブル”であり続ける。昭和初期に発行された、子供向けとは思えぬほど丁寧に取材構成され、詳細かつ美しい図解を多用した名著の数々。氏おすすめの「少年技師の電気学」(科学教材社、山北藤一郎著)、「科学する子供の為の模型航空機の作り方」(立命館、一柳直良著)、「子供の科学」(誠文堂新光社)など、古本屋で一度探してみては。

「少年技師の電気学」(科学教材社、山北藤一郎著)

「少年技師の電気学」(科学教材社、山北藤一郎著)

「科学する子供の為の模型航空機の作り方」(立命館、一柳直良著)

「科学する子供の為の模型航空機の作り方」(立命館、一柳直良著)

*1994年のメディア掲載記事を編集しております。

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KENJI KOBAYASHI

創り手を勇気づけてくれる、昔の科学本

創り手を勇気づけてくれる、昔の科学本

ぼくにとって深い思い出があるとすれば、子供の時に自分で買ってた本の中にあるんだろうね。それはきっと「少年ガマジン」や「子供の科学」といった少年雑誌で、今読みかえしても実によく出来ていて、単なる漫画雑誌や少年科学雑誌ではなかったと思う。

単行本ということになると、やっぱり「空気の発見(三宅泰雄著、角川文庫)」だと思う。この本は文庫本にもなっていて今でも手に入る。いろんな意味でぼくはとっても勇気づけられるのさ。独断で言えばね、ぼくはみんなが読んだらすごく喜んぶんじゃないかなって本、まだまだたくさんあるよ。

例えば「理化実験の遊戯」や、それにつながる少年向けの科学や工作の本のことだけど、こういう本には本当にワクワクするんだ。昔はあんなにあったのに、最近はめっきり出版されなくなった気がする。毎日曜日に一話づつ52週にわたって子供に読んで聞かせると、ちょうど一年で読み終える科学の本とか、おもちゃ、怪獣、望遠鏡、カメラ、家具、そしてラジオなんかの工作の本。「透明石鹸の作り方」や「何にでもメッキができる魔法の液体の作り方」というように、不思議な出来事を工作によって体験できたりして、興味と実際がすごく近いところにあると思う。とにかくぼくにとってはこーゆう本、読んでるのって楽しいんだ。

「最も新しい理化実験の遊戯」田村明一著、慶文堂書店プレゼント業書、1円20銭(昭和2年当時)

「最も新しい理化実験の遊戯」田村明一著、慶文堂書店プレゼント業書、1円20銭(昭和2年当時)

そして「原理応用 降神術」。この本はどちらかというと奇妙な本やあぶない本に入るかもしれないけれど、その前書きには、今の言葉で言うと「降神術とは、或る手段を用いて神の霊を招き迎え、死霊を呼び起こし、時において人類以上の優等なる生物(ビーイング)たちと過去や未来について語り合う交通をすることであり、これらは他の学術の及ばない所にある」なんて具合でしょ。そして内容はその或る手段の説明なわけ。ぼくの好きな大部分の本は、随分と古いものが多いんだ。誰かが残そうとしなかったら、震災や戦争の大火をくぐってはこれなかったこんな本に囲まれているとね、何かとっても優しく励まされてる気がするんだよね。(談)

「原理応用 降神術-スピリチュアリズム-」 渋江易軒著、大学館、35銭(大正5年当時)

「原理応用 降神術-スピリチュアリズム-」 渋江易軒著、大学館、35銭(大正5年当時)

「原理応用 降神術-スピリチュアリズム-」の内容

「原理応用 降神術-スピリチュアリズム-」の内容

*1994年のメディア掲載記事より編集して紹介しております。

 

KENJI KOBAYASHI

航空模型少年の夢の本棚

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『ぼくらの模型機』 実野恒久 167ページ 保育社 昭和28年 保育社の昭和20年代の出版物は装丁に独自のあたたかさと好奇心をそそるものが多い。この本は小学生全集の25として出版されているが、初版は『ぼくらの模型飛行機』として昭和16年刊

未知の世界へのパスポート

航空模型について書かれた本および雑誌は、明治40年代から昭和40年代までとてもたくさん出版されています。大戦中の啓蒙のものもあれば、戦後の科学教育的なものなどいろいろです。また昭和20年代からのプラスチックモデルについても含めると、おびただしい量になります。そこであくまでも簡単なデータと解説にとどめ、その表紙や内容の一部を図版にして少しでも多く紹介し、「模型工作世界」の雰囲気を楽しんでいただければと思います。

大空への憧れー二宮忠八と木村秀政

日本における模型飛行機といえば、二宮忠八氏に始まるのかもしれません。彼が工夫を重ねて作ったカラス型模型飛行機が、夜ひそかに丸亀練兵場で初飛行したといわれるのは、明治24年4月29日のことです。これは西暦1891年のことで、ドイツでオットー・リリエンタールが鳥の飛び方を研究してグライダーを作り、滑空に成功した年であり、アメリカのライト兄弟が「ライト自転車商会」を開く1年前のことです。二宮忠八はその後、必ずしも恵まれた生涯ではありませんでしたが、まさに純粋に飛行するこころを持ちつづけたといえるでしょう。そのように考えるともう一人、日本の航空界で忘れることができないのが、木村秀政です。彼は1904年、ライト兄弟の初飛行の1年後に生まれ、その生涯を飛行機とともに生きたといって過言ではない人生を送りました。1938年にはその設計・開発に当たった通称「航研機」航空研究所試作長距離機によって当時航続距離の世界記録を樹立したり、A-26長距離機によって1940年、その記録を更新したりしました。その後1986年に逝去されるまでYS-11や人力飛行機開発など多方面で日本の航空界とともに歩んだのです。その一方で、彼はまた多くの模型飛行機に関する著述も行っています。

初期の模型飛行機の分類

実際に飛行する模型とは違って、スケールや実感に重点をおいて作る「実体模型」という分野も、飛行機が一般的にこの世に実在するものとして定着し始める大正時代から少しづつ出始めます。たとえば大正2年刊の『新式飛行機の原理および模型製作法』(井関十二郎著)では「模型飛行機は元来二種に区別するが正当である」として、飛ばすことを中心とした「模型飛行機・モデル・オブ・エーロプレーン」と、実用飛行機をそのまま縮小した「飛行機の模型・モデル・オブ・エーロプレーン」を提唱。

また大正4年刊の『模型飛行機之研究』(中川健二著)では「模型飛行機は三種に大別される」として、それぞれ原動力を具えただ飛行するもの(甲種)、原動力を持ち飛行もするが実用飛行機の縮尺でもあるもの(乙種)、そして実用飛行機の縮尺に重点を置いて飛行の能力は具えていないもの(丙種)としています。

同時代においても、グライダーを滑空機、あるいは無発動飛行機として分類しているものもあれば、大正9年刊の『模型飛行機』(安田丈一著)では縮尺と飛行の二種であったりもします。

それらはやがて昭和16年刊『模型飛行機の理論と実際』(山崎好雄著)二おいては、用途からの分類(二種)、型からの分類(四種)、材料と作り方からの分類(六種)、動力からの分類(四種)と模型飛行機が一段と多様化していく様子がうかがえます。

なかにはキリガミ飛行機から軍用実機の試作模型や風洞および強度実験までに数十種におよぶ分類にいたるものまで出てきますが、大戦後になってからの趣味として、それぞれの分野が独立して著者の思い思いの趣向によって著されるようになってきたようです。もちろん現在では飛行機模型も、速度や距離を競うものや滞空記録の競技用やインジェクションやキャスティングによるプラスチックモデルなども考えると、枚挙にいとまはありません。

大戦中に著された銃後学童向けの本についても軍事啓蒙的前書きも多いのですが、不思議とそれらの表紙は明るく、空という未知の世界が少年たちのあこがれの的であったことを反映しているのでしょう。

戦後の模型飛行機界

戦後も昭和20年代では、飛行機模型は戦中の戦争啓蒙思想につながるものとして、しばらくの間、その存在が懸念された時期もありましたが、昭和28年刊『ぼくらの模型機』前書きのなかで「長い戦争のあと、模型飛行機を学校で作ることはいけないように思われていましたが、理科の教科書にさえ、ちゃんと模型飛行機を作ろうと書かれているほどで、どしどし作ってほしいものです。一つの模型飛行機を作ることに、理科や工作やいろいろの勉強のたいせつなもとがたくさんふくまれています。少年の夢をのせたりっぱな模型飛行機があなた方の手で作られることを楽しみにしています。」と著者の実野恒久氏も語っています。

いつのまにか便利な乗物としての飛行機となってしまった感がありますが、その昔あの無限にひろがる空を見つめながら、そんな風景のなかを鳥のように自由に飛翔したいと願った少年や少女たちのこころを喧騒から放たれたところで想ってみるのも、何かと忙しさに追われている現代人にとって無意味なことではないでしょう。

文、小林健二 2003年

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