*「無線と実験(1998年2月)」の記事より編集抜粋し、画像は記事を参考に付加しております。
鉱石ラジオの心臓部とも言える鉱石検波器用の鉱物。上段両端は自作のケース入り。
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鉱石ラジオの心臓部は何と言っても鉱石検波器です。そして、その主人公はやはり鉱物の結晶でしょう。若い頃に鉱石受信機を作り、しかもそれがさぐり式のように鉱物を外観からも確認できるタイプのものを体験されている方なら、すぐに方鉛鉱や黄鉄鋼といった鉱物の名称が思い浮かぶでしょう。確かにこれらの鉱物は一般的に入手しやすいし、またちょっと採掘や石拾いの経験の持ち主ならば、山歩きの時などに手に入れたことがあると思います。しかしながら、例えば方鉛鉱についていえば、国産のものには銀の含有量が必ずしも多くないので、感度についてはあまり望めないというのが実情です。ただ現在は各地でミネラルショーが行われたりする関係上、かえって昔より確実に入手できるルートも開け、またずっと安価となりました。
方鉛鉱ーGALENA(ガレナ)。
方鉛鉱はハンマーで軽く叩くと、完全な劈開(方向性のある割れ方をする)があるので、このようにサイコロ状に割れます。
もし鉱石検波器を自作しようとして鉱物をお探しになり、ミネラルショーや鉱物専門店にお出かけになるなら、私としては紅亜鉛鉱(こうあえんこう)”Zincite”ジンサイトという酸化亜鉛の鉱物をオススメします。この鉱物は地球上では北アメリカのニュージャージー州のフランクリン鉱山でしか現在は産出しないものですが、安価であるばかりか、感度も飛び抜けて安定しているからです。
紅亜鉛鉱(こうあえんこう)ZINCITEZ(ジンサイト)。北アメリカのニュージャージー州のフランクリン鉱山しか現在は産出しない。標本の赤い部分がそうです。
もちろん一見そんな特殊な鉱物が手に入らなくても、驚くような感度を期待しなくても良いならば、サビびた針や釘でも検波はできます。ただサビといっても赤サビでは直流抵抗も高く安定しないので、俗にいう黒サビのものでなければ具合は悪いのです。黒サビのついた針はあまり正確な方法ではありませんが、コンロなどで赤く焼いて自然冷却したような方法で用意します。あるいは本当は電池と抵抗体で2ボルト以下のバイアス電圧を印加すると、古くなったカミソリと鉛筆の芯でも優れた検波器を製作できます。
カミソリと鉛筆の芯によって作られた検波器を使った鉱石受信機。1940年代の米国の記事から小林健二が復刻したもの。W148xD98xH40mm
少し風変わりな検波器といえば、表面に金属を蒸着して、アクセサリーの一部とした販売されている水晶やガラス製品、あるいは2本のシャープペンの芯などに縫い針を渡した構造のものでも検波できることがあるのです。検波する原理はダイオードを発明する以前よりアンダーグランドにあったことは歴史的に説明されていて、その原点となるのは鉱石検波器であることは明白なことと思います。(*現在の電気の歴史上あまり重要とされていない)
右は鉛筆の芯とその間に置かれた縫い針とで検波する変わった検波器。(小林健二製作)
左はおもて面に酸化チタンを蒸着メッキした水晶。小林によると使い方で検波も可能とのこと。
しかしながらその作動原理ということになると、ダイオードはまさに半導体のPN接合による理論体系の上で製作されており、正孔や自由電子の振る舞いによって淀みなく説明でき流のですが、鉱石検波器及びそれに準ずる検波器については必ずしもこの方法論だけでは説明仕切れないというところがあります。私にはそれもまた鉱石受信機の魅力の一つとなっています。
私としては鉱石受信機全体について虜になった人間として、その魅力についてもっと語りたいのですが、現在オーディオ雑誌である「MJ 無線と実験」誌上であまりくどくど説明するとかえって逆効果になりかねないのでこの辺にしておきましょう。
ゲルマニュームダイオード今昔。下から5本目はその上のものと同じで、プラスチックのカラーを外したもの。下方の2本が比較的新しいもの。
米国シルバニア社製のゲルマニュームダイオード。1940年代の製品としてはもっとも初期のものの一つ。
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ただ最後に鉱石ラジオの音について少し述べさせていただくと、それはまさに小さくとも透き通った音なのです。私の製作した鉱石ラジオを聴いた方は、まずみなさん開口一番このことを話されます。「もっと聴きづらいかと思った」。
確かに三球レフレックスや五球スーパーをお作りになった方はハムやフィードバックのノイズがあることを経験されているので、もっと旧式なものだからきっと聴きづらい、と類推されるようです。1987年に製作した「サイラジオ」と名付けた私のラジオにいたってはその「ピー」とか「ギャー」という一連のそれらしい音をトランジスター回路にサイリスターのノイズを入れるようにして作ったほどです。
もちろん単純にコイルとコンデンサーそして検波器だけで製作した鉱石ラジオは分離特性が悪いため、異局の混信は免れませんし、バリコンを動かしてみたところで、常に他局の放送が被っていて同調器をいじってみたところで主客が入れ替わる程度の分離状態です。
ところがどうでしょう。数分もラジオに戯れていると、少しづつ放送が聴こえてくるではありませんか。頭を冷静にして考えてみるとラジオは特に何も変化はなく、変わっていったのは自分の耳の方だと気づいたのです。無意識のうちにノイズとサウンドの主客が認識されると、自分の中の感性がラジオの足りなかった分離特性を補っていたのです。
小林の生家の全身。当時、神田にあった「蓄晃堂」
これは私がかつてある日の実験中に感じた出来事の一つですが、その時私は昔母や父から聞いたいくつかのエピソードを思い出していました。それは戦争中の話にさかのぼりますが、実家はその頃、新橋で『蓄晃堂』というレコード店を営んでおりました。昭和19年から20年にかけて空襲は本土へ日ごとに多く、また激しくなっていったそんなある寒い朝、家からそう遠くない場所にある日本楽器(現ヤマハ)に直撃弾が落ちのです。その時の空襲は火災は思うほどではないのに空が暗くなったと見上げると、空一面におびただしい楽譜や譜面が飛び交っていたそうです。そしてその現場に当時貴重であったそれらの譜面を一枚でも水や火に当てまいと母たちは走っていった時、まるで嵐のように風に舞い散る現場に着くと、すでに数十人の人たちが早々と防空壕から出てきていて手分けしてそれらを拾い集めていたというのです。母は「この国には本当に音楽好きが多いんだね」と感動し、自分もすぐにその仲間に加わったとのことでした。
その頃本当に物がなくて、入手ルートから粗製のレコード針が入ってくると、空手警報の最中でも情報を知った人々が集まりすぐに売り切れになったそうです。母の自慢はそんな時でも、誰も彼もが一箱づつしか買っていかなかったということでした。ちなみに母がいつも笑って言っていたのは、そのレコード針の箱絵には『RCAのラッパと犬』ではなく「あんな時代だからラッパと招き猫だった」とのこと。まさに音楽が生きるためにあった時代だったのですね。
私がやがてバンドに夢中になった頃「全くSP盤って雑音だらけだね」というと、父はよくそれはお前の耳が悪いからだと言っていました。昔の人は何かと昔を懐かしがる、だから雑音だってここと良いんだと言わんばかりにしか思わなかった私ですが、鉱石ラジオを作るようになってから、少しづつ考えが変わりはじめるようになったのです。
確かに今までの自分はいつの間にか機器にばかり凝ってかえって音楽よりノイズばかりを気にして聴いていたのではないのではと思ったりもしたからです。それ以来、私はあえてノイズを付加したようなラジオを作らない代わりに、ノイズに対してやたら反応する耳ではなくて雑音の海の中の音楽をすくいだし、そして楽しめる耳と心を持ちたいと考え始めたのです。
そしてそれはあの命がけの音楽の時代に生きた、今は亡き父と母から一つの通信を鉱石ラジオによって受け取ったのではないかという、そんな気もしてならないのです。
小林健二
[鉱石ラジオを楽しむ]前編
KENJI KOBAYASHI