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アーティストインタビュー:小林健二さん

小林さんは絵画や立体造形を広く手がけている一方、科学、物理、電気、天文、鉱物学などの自然科学をアートと融合させたような、ちょっと懐かしくて、しかも不思議な仕掛けのなる作品を数多く発表しています。今日、訪ねたアトリエにも薬品や鉱物の標本のようなものがいっぱいあって、実験室のような雰囲気もします。おそらく、小さいころは科学少年であり、工作少年ではなかったと思うんですが、いかがですか?

アーティスト小林健二(文京区のアトリエにて)

「科学少年」や「工作少年」であったかはぼくにはわかりませんが、工作や科学は子供の頃から好きでしたね。今でもそうなのですが、ぼくの中では科学や図画工作、それから音楽と美術というように、どれも分野で分けられているものではないんです。もし、自分の中で多少区別があるとすれば、好きなことと苦手なこと、あるいは興味があるかないかということだろうと思うんです。むしろ美術ならそれ自体が、他の分野から全く独立して存在しているということは考えにくいですよね。

油彩画を描くにしても、木を彫刻するにしても、あるいは電気を使ったり、ぼくのようにある種の結晶を作ることにしても、いつだって何がしか他の専門分野の知識や技術と切り離せないことは多いと思います。光を使った作品を製作する上でも、電気的な構造の部分や工学的なところ、またはそれに伴う金属加工などの作業や、あるいは樹脂などの化学的変化についても、知らないでいるよりはある程度理解していた方が、よりイメージに近い状態に近づける可能性があるわけですからね。

この国がとりわけその傾向が強いのか、ぼくにはよくわかりませんが、ある意味で、いろいろなことをまずはカテゴライズしないことには気が済まないような国民性があるんじゃないかな。

ぼくは絵を描いていたりするけど、作曲をしたり文章を書くこともあります。そうしていると、『どうして美術だけではなくて、音楽や文筆活動やいろいろされるのですか』と聞かれることがあるんです。でも、伝えたいメッセージやそのイメージに何が一番適しているかで表現方法は変わってくるし、そのことに自由でいたいと思うんです。ですから、ぼくにとって技術的な表現の分野を分けることはあまり意味のあることではなくて、何をしたいかといったその内容や必然性の方が重要に思えるんです。」

小林健二作品「夏の魚」
油彩画(自作キャンバスに自作絵の具)

小林健二作品「LAMENT]
(木彫と鉛などの混合技法)

小林健二作品「MINERAL COMMUNICATION-鉱石からの通信」
(作品の内部に設置された小さな鉱物(ウラニナイト)から発する微量の放射能をガイガーカウンターが感知し、モールス信号とも取れる発信音が作品から聴こえてくる)

小林健二結晶作品
(自作の人工結晶)

小林健二結晶作品「CRYSTAL ELEMENTS」
(透明なケースに封じられた水晶液中の結晶が、季節を通して成長や溶解を繰り返す。画像は展示風景)

小林健二作品「IN TUNE WITH THE INFINITE-無限への同調」
(窓から見える土星が青く光りながら浮いていて静かに回っている作品。内部はおそらく電子部品に埋もれている)

小林健二動画作品「etaphi」

小林健二音楽作品「suite”Crystal”」
(ミニマルミュージック。個展会場などで流すことが多い。現在ではCD化しているが、当初は降るように音が脳裡に浮かび、急いでアトリエにあった録音機(テープレコーダー)に、これもアトリエにあったピアノで収録。)

小林健二著書「みづいろ」
(実話を元に綴られたもの。活版印刷で、装丁も小林がしている)

様々なことに興味があるというのは、小さいころの体験によるのではなかと思います。遊びとしてはどんなことをしていたのでしょう?

「みなさんと同じで、いろいろとしていたと思いますが・・・(笑)。ただ熱中していたことはいろいろあります。例えば恐竜や鉱物について調べたり、飛行機の模型やプラモデルを作ったり、プラネタリウムに行ったり・・・。自分の大事な思い出は、その大部分が子供の頃にあるように感じます。ですから、例えば文章を書いたりすると、『子供の頃は・・・』という書き出しになってしまうことが多いんです。それから、昔の友達にあったりすると、『ケンジ、お前は子供の頃と全然変わってないな』ってよく言われちゃう。これは進歩がないということでもあるんでしょうが、おそらく、ぼくの中ではまだその頃と変わらないものがずっとあって、ぼくには子供の時に感じたたくさんのことが今も大きく影響しているところがあるんでしょう。多分これからもそうなのかもしれません。そもそも人間なんてそう簡単に変われるものでもないだろうし、『三つ子の魂百まで』なんて言うでしょう。」

小・中学校での美術教育の体験について尋ねたいんですが、何か記憶にあることはないでしょうか?

「学校時代に図工・美術の時間ではとにかく、放っておいてくれたという感じでしたね。でもだからこそ自分のやりたいことがはっきりしていた場合、とても楽しかったし、やりたいことが見つかるまでは待っていてくれたように思います。そして少なくとも描き方を強制されるようなことはありませんでした。

『子供のころに何に影響されましたか?』とか『どんな画家が好きですか?』ということを時たまインタビューでも聞かれるんですが、ぼくが影響を受けた美術の作家というのは、あまりいませんでした。絵を描くこと自体は好きでしたが、画家になるんだって気持ちで描いていたわけではないように思います。その一方で自然科学には子供のことから興味がありました。もちろん子供にとって『自然科学』なんていう概念はありませんけど、これは一つの資質だと思うんです。とにかく、星や鉱物、要するに天文学や地学に関することや恐竜などの古生物に関することが好きでした。それで小学生の時には、上野の科学博物館に行ってそういうものを見るのが何よりも好きだったんです。」

小林健二のアトリエ
(色々な道具に混じって望遠鏡が写っている)

小林健二アトリエの一角
(机には顕微鏡や鉱物も見える)

また美術の話に戻してしまいますが、絵としてはどんなものを描いていたんでしょうか?

「実は今でもそうなんですが、とにかく怪獣とか恐竜の絵が好きでした。それで、図工の授業でどんな課題が出ても何かとこじつけて怪獣や恐竜を描いちゃってました。例えば、虫歯予防デーのポスターを描くなんていう課題は、ひょっとしたら今でもあるかもしれませんが、そんな時にも、ブロントサウルスが歯磨きをしている絵なんか描いたんです。でも、ブロントサウルスというのは手が首ほどには長くないので口まで届かない(笑)。それでうんと長い歯ブラシにしたりしました。これは結構先生にもウケましたけど(笑)。でも、それはもちろん例外で、いつも怪物ばかりしか描かないで、おそらく先生も困られていたと思います。」

小林健二作品「描かれた怪物」
(板に油彩、紙、木、他)

ごく普通に考えると、美術や音楽が好きなことと、自然科学に関心を持つことは、子供にとってはやはり意味が違うのではないかという気もします。電気や天文や昆虫に興味を持つことには、それらについて新しい知識を獲得していくという喜びがあり、それは絵を描いたり楽器を演奏する楽しみとは異質なのではないでしょうか?

「ぼくはそのように分析して考えたことはないですね。初めにも言ったように『自分にとって好きなことと苦手なこと』という基準が何よりも大きいんです。『好きなこと』とは自分にとって『楽しいこと』、あるいは、『感動できること』と言い換えてもいい。夜空を見て星が綺麗だなと思ったことや、冷たく光っている水晶の結晶に見とれてしまうような感覚が最初にある。電気というのはもちろん物理学の一つの分野ですけれど、ぼくにとっては、フィラメントが光って綺麗だというのは、星が輝いていることの美しさとどこか通じているわけだし、あまり違いはないんです。

ものが光る理屈にはいろいろあります。星やホタルも、LEDや月も雷もそれぞれ異なった方法で発光しています。でもぼくにとっては重要な問題じゃない。肝心なことは、それを見てどう思えるか、そこへすうっと気持ちが引き込まれていくかどうかということなんです。でもその後さらにその不思議な現象にまるで恋でもするように深く知りたく、また近づきたくて科学の世界に足を踏み入れたとしても不自然なkじょととはぼくには思えないけど・・・。

だって、考えてみれば、もともと子供にとっては、そういう分野わけはないわけですよ。だからこそ、そういうことを教える必要があるという立場も一方はあるでしょうけど。たとえがホタルが光るというのは、一見、物理的現象でしょうが、実はあれはルシフェリンとルシフェラーゼという物質によって発光しているわけで、有機化学の問題になってきます。これはLEDが通電により電子のぶつかり合いによって発光したり、太陽中の水素がヘリウムになるときに熱核融合反応により発光していることと、それぞれに違っている。だけど、そういうことはあくまでも理論であって後からくる。まずはそのことを知っていなければいけないということではないし、そういう知識がなくとも、子供たちは、ホタルが光ることを綺麗だと感じたり、不思議だと思ったりするわけでしょう。

これは、おそらく美術の場合でもまったく同じだろうと思うんです。例えば、名画というのは、あらかじめ認められた価値のあるものだから尊いのではなくて、子供の目から見ても、そこに面白さや美しさが感じられることに意味があるのだという気がします。いくら値段の高い絵だって、『これは価値があるから感動しろ』というのはおかしい。作品を受け取る子供達の中に興味や関心が培われていなければまったく意味がないだろうと思うんです。」

おっしゃることはよくわかります。ただ、教育の主要な目的として、文化遺産の世代間伝達ということはあると思うんです。ですから、まず知識を持津ことで、一層興味を喚起されたり、深い感動につながるということもあるように思うんですが・・・。

「それはあるでしょう。でも、ぼくは感動することの本来の意味についてお話ししているわけです。ホタルの発光がルシフェリンとかルシフェラーゼという物質の反応によって起こっているということは、さっきお話ししましたけれど、それで全てが説明されたことになるでしょうか。DNAの主要な物質であるディオキシリボ核酸は、アデニンやシトシンやグアニンやチミンといった物質によってヌクレオチドを形成していますけれど、どれが分かったからといって、生命現象が解き明かされたとは誰も思わないでしょう。同じように仮に人のゲノムが完璧に解読されたとしても、それによって人の心が理解できるというものじゃない。ですから、知識によってわかるといったところで、それはあくまでもごく狭いフィールドにすぎません。でも大人たちはそこでいかにも分かったような気にならなければいけないと思っているんじゃないでしょうか。」

小林さんの作品は子供達にも人気があるのではないかと思うんですが、展覧会などでの子供達の反応はどんな感じですか?

「ぼくの作品がどれくらい子供達に人気があるのかわかりませんけれど、興味を持ってくれる子供は結構いるという話は聞きます。自分が面白いと思ったものにじっと見入ってくれている子を見かけたことがあります。そういう様子を見ていると、子供の頃ぼくが博物館の陳列物に惹かれたのと同じように、自分の心の中の何かを探そうとしてくれているような気がしますね。」

小林健二展覧会「PROXIMA(ARTIUMにて)」の一室風景

今、話を伺っているこのアトリエには、鉱物の結晶や化石、星座板とか昆虫の標本やおもちゃのようなもの、それから薬品やいろいろな道具がたくさんありますよね。また書庫の方には、化学実験や自然科学に関する書物を始め、ありとあらゆる本が並んでいます。『おもちゃ箱のよう』という表現はありきたりかもしれませんが、とにかくここにいると小林さんの個性的な世界を感じます。これは、言わばモノが何かを語っているのではないかとも思えます。ただ、モノの世界というのは実はアブナイところもあって、最初の興味から離れて集めることが目的になってしまうことが、子供のコレクションなどではよくありはしませんか?

「それは、例えばチョコエッグのおまけで1番から3番と5番と6番が揃っていると、抜けている4番がどうしても欲しくなっちゃうようなことでしょ(笑)。ぼくにはそういうことは全くないですね。また本や鉱物標本などは、見る人によっては物質としのモノに見えるかもしれませんが、ぼくにとってここにあるもののほとんどすべては、いわばこの世とは一体何かを知る、あるいはそれに近くための手段だとも言えるんです。ですから、本たちの中にある見えないはずの風景や標本たちから感じる不思議な存在の意味のようなものがぼくにとってはとても大切なのです。それが結果的に集まってくるだけのことなんです。ここにある鉱物の中には、現在は世界のどこでもほとんど採掘されていないため希少価値がある、かなり高価なものもありますけれど、その反面、夜店で売っているようなものもあります。それはその時『どこか心を惹きつける』と思うからつい買ってしまうんです(笑)。

ただここで大事なことは、美しいと感じるものに出会うという体験はとても大切だということです。なぜならそれは人によって全く違うものであるか、あるいは共通する部分があるのかを感じることでもあるからです。子供でも大人でもその人がどこに惹かれたり気になったりする事柄や出来事に、その人の個性や核心に触れるヒントみたいなものがあるんじゃないか。また現代のように便利や効率が求められると不思議な世界と出会いながら、科学や美術に接してきた歴史もだんだんと経済に取り込まれてきたという感じは否めないと思うし、人間や力のあるものを中心に考えが進んでいくという傾向があると思うんです。

大切なのは、天然の神秘に出会うことによって、ぼくたちがその美しさを感じて生きていく、そういう生き方を決して無意味とは思えないからです。」

小林健二の書庫
(2005年「STUDIO VOICE」記事からの複写)

小林健二アトリエの一角
(薬品や樹脂などの棚)

小林健二アトリエの一角
(実験中の自作結晶などが見える)

一般に私たちは、美術の教育というのは、絵を描いたり彫刻を作ったりする製作体験をもとにした表現行為だと理解している気がしますが、今のお話からすると、美術や美術教育の意味はもっと広く捉えられるというわけですね。

「美術というのは、そこにあるもののことではなく、作品とそれを作る人、それを見て感じる人との関係や、その人の生き方だろうと思います。一方、Educationというのは、ラテン語の『道を拓く』という意味からきていると言われています。人が歩けないような荒野に道を切り拓いていくことです。ただし重要なことは、その道を歩くことを誰も強制されいことでしょう。どの道を選ぶかということは一人一人が判断していかなければならない。明治になって日本語になった『教育』という言葉も奥深い意味を持ってはいますけれども、子供たちに教え、彼らを育んでいけるような見識を持った大人たちが、今はどれだけいるだろうかということが気になります。単に自分たちの価値観を押しつけて「いるだけれはないのか。義務教育という制度にしても、全ての子供たちは教育を受ける義務があるという意味だと理解されているのではないかと思いますが、本当はそうではなくて、これは大人の側に教育制度を整える義務を課しているということであって、子供たちが教育を受ける権利を保障しなければならないということですよね。」

確かに、これまでの教育にはみんなが同じことをすることを通してある到達点を目指していくというような授業が多かったようです。けれども最近ではそれを反省して、図工・美術の授業でも、同一時期の中でも子供たちが自分に合った様々なスタイルの製作を認めていこうという方向になりつつあるようです。

「それは当然といえば当然だけども、いいことでしょうね。だってもし本当に『ある到達点』というのが存在するとしたら、それはある水準に達するという意味ではなくて、それぞれのその人自身に出会えるということだろうと思うからです。例えば、石を見て『きれいだなー』って感心している子がいるとしますよね。それを見て横から『いつまでもそんなことしてないで勉強しなさい』なんて言っちゃうお母さんがいたりしますが、これは違うと思う。そうやってものを見て感動すること、きっとこれがその子の本当の勉強なんです。だってその子はその出来事に出会うために生まれて来たかもしれないでしょ(笑)。そしてその子の人生の目標と方向を発見するかもしれないわけですよ。こう言う時の子供の目はものすごく輝いている。それが、本当に勉強をしている子供の目だと思うんです。」

*2002年のメディア掲載記事(小林健二へのインタビュー)より編集抜粋しており、画像は新たに付加しています。この記事は教育関係メディアに掲載されたため、質問内容が主に美術教育に関するものになっております。

KENJI KOBAYASHI

 

鉱物との出会い

アメティスト(紫水晶)表層の、まるでシュクル(アメ細工)のように小さな濃い紫やオレンジ色の結晶がついた標本。
Amatitlan,Guerrero,Mexico

ー小林さんの鉱物との出会いというのはいつ頃ですか?

「小学校の低学年の頃に、ちょっとした事件というかある出来事があって、そのことがショックとなってひどい対人恐怖症になってしまったんです。

その頃ぼくは恐竜などが好きで、友だちとよく上野の国立科学博物館に行って担ですよ。今はレイアウトがかなり変わってしまったけれど、その時に鉱物標本室というような展示室があって、随分と印象的なところでした。

傾斜になった古い木でできたガラスケースの中に、整然とたくさんの鉱物標本が並んでいて、子供の頃からクラゲや石英のような透明なものが好きだったので、水晶のような透き通るものにはとりわけ目が行ったし、また藍銅鉱や鶏冠石(けいかんせき)といった色のはっきりとしたものもたくさんあって、とても綺麗でしたね。そんな中で、何回か通ううちに、たまたま学芸員の人が鉱物を色々説明してくれるようになって、鉱物に対する興味が一段と湧いてきたし、だんだんと鉱物を介して人とコミュニカーションを取ることができるようになってきたんです。

実は先ほどの事件というのは、大人の男性から受けたもので、大人の男性に対して恐怖を感じたことに端を発していたんです。その学芸員の人と、ひいてはその鉱物と出会うことがなければ、一体今頃どうなっていたかと思うんです。

今は多少笑いながら話せますが、当時は命を奪われるほどの恐れを抱いたので、それが少しづつほぐされていったのが、本当にありがたいです。」

ドイツ・ボンの博物館は、昔(小林健二が小学ー中学生の時に通っていた頃)の上野にある国立科学博物館の鉱物標本展示室にどこか似ている、と話す。

ー35年以上前の話ですけど、鉱物との出会いは小林さんにとって貴重なものでしたね。ところでミネラル・ショーのようなものはなかったんですか?

「池袋や新宿で年に一回開催されていますね。当時は今のように鉱物をまとめて見る機会はほとんどありませんでした。神保町に高岡商店というのがあって、矢尻とか土偶と一緒に水晶のような鉱物標本がいくつか売られていたぐらいかな。

ぼくが成人した頃には、千駄木の凡地学研究社で鉱物を買うことができるようになりましたね。小さな木の階段をギシギシとスリッパに履き替えて上がっていってね。今となっては懐かしいね。」

ー海外ではバイヤーが集まるミネラル・ショーが行われたでしょうし、ショップもかなりあったんでしょうね。

「海外ではミネラル・ショーは以前から盛んで、特にツーソンやミュンヘン、デンバーなどはとりわけ有名ですね。今でもショップは数多くあります。日本では最初に「東京国際ミネラルフェア」がはじめられた時に、出店していた人たちもその後あんなに続くとは思わなかったんじゃないかな。でも当時に比べたら、鉱物標本を扱う店は増えたと思います。」

ー昔の標本屋さんはどんな感じでしたか?

「ぼくが子どもの頃ってほとんど日本で採れた鉱物ですよね。そうするとどうしても地味なんです(笑)。それに結晶性のものよりは石って感じのものが多かったですね。時々綺麗な鉱物があったけど、いいと思うものは当時のぼくが買えるような値段ではなかった気がする。

そういえばぼくが22-23歳の頃、凡地学研究社に半分に切断されたアンモナイトの一種が置いてあったんです。それは表面が真珠色で断面がよく磨かれていて、隔壁や外殻本体は黄鉄鋼化して金色で、さらにそれをうめる全手の連室はブラック・オパール化しているもので、もうそれは素晴らしかった。とりわけその中心から外側の方へ青色からピンク色へと変移していくところなんて、もうデキスギとしか言いようがなかった。」

ーそれ以降、同じようなものは見たことがないですか?

「ありませんね。その時は本当にこんなものが自然にできるのかと思ったくらいで、人間の技術や造形意識を超えた、天然の神秘な力を感じないわけにはいかなかった。今となって考えてみれば、天然を超える人間の美意識なんていうものを想像する方が、難しいと思うけど(笑)。

あとは無色の水晶に緑簾石(りょくれんせき)がまるで木の枝のように貫いて、その端が花のように咲いて見える大きな標本とか、細かい針状の水晶の群晶の中央に、真っ赤に透き通る菱マンガン鉱の結晶とか、言い出したらキリがないけど、色々な標本屋さんとかミネラル・ショーに行くと、博物館でも見られない標本を見ることができるのは素晴らしいことだと思うんです。」

 

「地球に咲くものたちー小林健二氏の鉱物標本室より」
岩手の石と賢治のミュージアムで開催された、小林健二の鉱物標本の展示風景

「地球に咲くものたちー小林健二氏の鉱物標本室より」

「流星飲料ーDrink Meteor」
石と賢治のミュージアムにある石灰採掘工場跡、そこに期間限定で不思議なお店が現れました。

「流星飲料ーDrink Meteor」
石と賢治のミュージアムにある石灰採掘工場跡。小林健二が作ったレシピによる ドリンクを、彼の土星作品に囲まれて楽しむお店です。とくに光る飲料水「流星飲料」を光るテーブルにて飲む瞬間は、時空を超えて流星が体内を通り過ぎ、気がつくと星々に囲まれているような錯覚を覚えた記憶があります。

小林健二個展「流星飲料」。期間限定で現れた不思議なお店、そこのレジの横には不思議な光源で光る鉱物の数々。

「流星飲料ーDrink Meteor」

石と賢治のミュージアム(石灰の採掘場に宮沢賢治が何度か訪れ、馴染みのある工場跡、そこに併設されて作られたミュージアムです)で開催された展覧会。その洞窟の奥にある小さな池に、小林健二は水晶作品を展示。
現在は地震の影響もあり、この洞窟には立ち入りが禁止されています。

*岩手の一関にある「石と賢治のミュージアム」では、鉱物展示用に設計された什器の中に、数多くの小林健二が選んだ鉱物が展示されています。

*2002年のメディア掲載記事より編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

KENJI KOBAYASHI

[鉱石ラジオの時代]+[不思議な鉱石ジンカイト]

[健二式鉱石受信機] 小林氏が作る歴史的には存在しなかった最も原理的な鉱石ラジオ。束ねられた二重絹巻き銅線をコイルとし、白雲母の板に錫箔を貼ったバリコン、そして検波鉱物が共生している水晶などで構成されている。

[健二式鉱石受信機]
小林健二氏が作る歴史的には存在しなかった最も原理的な鉱石ラジオ。束ねられた二重絹巻き銅線をコイルとし、白雲母の板に錫箔を貼ったバリコン、そして検波鉱物が共生している水晶などで構成されている。

[鉱石ラジオの時代]

鉱石ラジオはアンテナとアース、バリコンとイヤフォン、コイルといった、いたってシンプルな材料によって成立する。電池もいらないが、ただ検波可能な方鉛鉱、黄鉄鉱などいくつかの結晶鉱物がなければ聞こえないという、不思議なラジオ。

ー鉱石ラジオは小さいときに作ったりしてたんですか?

「ぼくが小さい頃にはすでに鉱石ラジオのキットなんてなくて、やっぱりゲルマラジオでしたね。それでさえうまく作るとこはできませんでした。歴史的に見てもラジオって無線を傍受したりできるわけだから、戦争時代には抑制されたと聞きます。しかも鉱石ラジオって電源を必要とせずに聞けるわけですから、戦争後にまた鉱石ラジオは売り出されるけど、それらは戦前戦後を通じて固定式という型で、基本的な性格はゲルマラジオをあまり変わらないものと言えるんですね。昭和30年頃からそのゲルマニューム・ラジオにとって代わられるし、テレビ放送まで始まるし、時代は段々とラジオから離れていく。そして小型でアンテナやアースを設置しなくてもよく聞こえる トランジスタ・ラジオも製品化されるわけですしね。」

[PSYRADIOX(遠方放送受信装置)] 1993年以降に登場する作品は、一見アンティークに見えるが、筐体やアンテナ、ツマミなどの各部品、およびコードに至るまで小林健二氏自作による。

[PSYRADIOX(遠方放送受信装置)]
1993年以降に登場する作品は、一見アンティークに見えるが、筐体やアンテナ、ツマミなどの各部品、およびコードに至るまで小林健二氏自作による。

[BLUE QUARTZ COMMUNICATOR(青色水晶交信機)] 内部に閃ウラン鉱(ウラニナイト)が組み込まれており、そこからでる放射線(人体には無害な微量)をガイガーミューラー菅で検知し、それを特殊なフィルターがモールス信号のように変換している。筐体には入りきらないほど大きいはずの水晶がゆっくり回転し、その音とシンクロして白く明滅する作品。

[BLUE QUARTZ COMMUNICATOR(青色水晶交信機)]
内部に閃ウラン鉱(ウラニナイト)が組み込まれており、そこからでる放射線(人体には無害な微量)をガイガーミューラー菅で検知し、それを特殊なフィルターがモールス信号のように変換している。筐体には入りきらないほど大きいはずの水晶がゆっくり回転し、その音とシンクロして白く明滅する作品。

[CRYSTAL TELEVISION(鉱石式遠方受像機)] 中央のウレキサイトの画面に映像が浮かび出る受像機。音声は遠方から聞こえてくる。エジソンが構想していた霊界ラジオならぬ霊界テレビを連想させる作品。

[CRYSTAL TELEVISION(鉱石式遠方受像機)]
中央のウレキサイトの画面に映像が浮かび出る受像機。音声は遠方から聞こえてくる。エジソンが構想していた霊界ラジオならぬ霊界テレビを連想させる作品。

ー短波やハムの世界よりマイナーな訳ですね。

Crystal-Television from Kenji Channel on Vimeo.

「今となっては短波やハムもかなりマニアックだけどね。今でも続けている人たちはいるわけだけど、さすがに鉱石ラジオを作って聞いている人はあまり知らないね(笑)。」

ーゲルマニューム・ラジオや真空管ラジオの前に、鉱石ラジオしかない時期があったんですか?

「いや、逆に真空管ラジオの方が早いんです。ただ鉱物い検波作用があることが発見されたのは放送局ができる前だから、それが後で鉱石ラジオとして使えることになったわけです。しかもその頃はクリスタル・イヤフォンなんてなくて、それはトランジスタ・ラジオの頃にできたものですから、鉱石ラジオはハイインピーダンス・ヘッドフォンを使って聞かれていました。だから、鉱石ラジオを クリスタル・イヤフォンで聞くというのは、あまり例の多いことではなかったはずです。

[不思議な鉱石ジンカイト]

「最初に作品として鉱石ラジオを作った時には、鉱石ラジオといえば何か透質な結晶でできたラジオというイメーがありました。しかも蛍石や水晶、方解石とか透明な鉱物が好きだったから、実際に電波を受信する、つまり検波に使われる方鉛鉱とかイメージできなかったわけです。水晶や蛍石でどうやってラジオができるんだろうって思ってました。

それで、調べるとだんだんと本当の鉱石ラジオというものが分かってくるわけですけど、最初のイメージが払拭されるわけではないので、透明な鉱物が頭についたラジオを考えたんです。」

鉱石ラジオという言葉のイメージから小林健二氏が製作した[PSYRADIOX]

鉱石ラジオという言葉のイメージから小林健二氏が製作した[PSYRADIOX]

ー水晶や蛍石みたいな透過性のあるものでは実際は検波できないんですか?

「実際どの鉱物が一番感度がいいんだろうって調べてみたんです。だいたい透明な鉱物に電気が通るって想像つかないですよね。基本的に絶縁体では検波はできないわけだし、電気が通るということは自由電子があるということで、大抵の場合金属光沢を持っているものですからね。

ジンカイトは、まだ ソ連がある頃、ポーランドの亜鉛精製工場の煙突に結晶化して付着していたものを一年に一回カキ落とし、西側に流通させたものだと言われています。逸話何ですけどね。ぼくが買ったのは80年だから、当時は謎の鉱物ジンカイトとして買い求めていたんです。

ジンカイトって紅亜鉛鉱(ZINCITE)と同じスペルなんですね。ジンサイト(紅亜鉛鉱)というのは、ニュージヤージーにあるフランクリン鉱山以外にはほとんど産出されない珍しい鉱物で、紅いのはマンガンが含まれているからなんです。

ジンサイト(紅亜鉛鉱)。アメリカのニュージヤージー州にあるフランクリン鉱山以外にはほとんど産出されない珍しい鉱物で、赤色部分。マンガンが含まれているためこの色になる。

ジンサイト(紅亜鉛鉱)。アメリカのニュージヤージー州にあるフランクリン鉱山以外にはほとんど産出されない珍しい鉱物で、赤色部分。マンガンが含まれているためこの色になる。

その紅亜鉛鉱は鉱石ラジオの検波に使える感度のいいものの一つなんですね。それで、ある日『まてよ、ジンサイト(紅亜鉛鉱)とスペルが同じなら、ひょっとして感度が出るんじゃないの!』と思ったわけ。透過性があって全然似てないけど同じZINCITEなら検波できるかもしれないと。ジンカイトは紅亜鉛鉱と同じ酸化亜鉛なんです。で、ちょっと実験してみると、透明なジンカイトでもちゃんと電気を通すことがわかったんです。ジンカイトは通常入手できるものの中では、唯一、透過性があって検波に使える鉱物ですね。」

透過性のある結晶ジンカイトで通電の実験をしてみる。

透過性のある結晶ジンカイトで通電の実験をしてみる。豆電球が光っているということは、電気がこの不思議な結晶鉱物の中を通っている証拠です。

オレンジ色に透き通ったジンカイトと人工ビスマス(蒼鉛)の結晶検波器。とても感度がいい。

オレンジ色に透き通ったジンカイトと人工ビスマス(蒼鉛)の結晶検波器。とても感度がいい。

赤色のジンカイトと方鉛鉱の検波器。やはり感度大。

赤色のジンカイトと方鉛鉱の検波器。やはり感度大。

 

*2002年メディア掲載記事より一部抜粋編集し、画像は上の二点は記事からの複写、そのほかは新たに付加しております。

KENJI KOBAYASHI

 

[鉱石ラジオを楽しむ]後編

*「無線と実験(1998年2月)」の記事より編集抜粋し、画像は記事を参考に付加しております。

鉱石ラジオの心臓部とも言える鉱石検波器用の鉱物。上段両端は自作のケース入り。

鉱石ラジオの心臓部とも言える鉱石検波器用の鉱物。上段両端は自作のケース入り。

3,

鉱石ラジオの心臓部は何と言っても鉱石検波器です。そして、その主人公はやはり鉱物の結晶でしょう。若い頃に鉱石受信機を作り、しかもそれがさぐり式のように鉱物を外観からも確認できるタイプのものを体験されている方なら、すぐに方鉛鉱や黄鉄鋼といった鉱物の名称が思い浮かぶでしょう。確かにこれらの鉱物は一般的に入手しやすいし、またちょっと採掘や石拾いの経験の持ち主ならば、山歩きの時などに手に入れたことがあると思います。しかしながら、例えば方鉛鉱についていえば、国産のものには銀の含有量が必ずしも多くないので、感度についてはあまり望めないというのが実情です。ただ現在は各地でミネラルショーが行われたりする関係上、かえって昔より確実に入手できるルートも開け、またずっと安価となりました。

方鉛鉱ーGALENA(ガレナ)。フランクリン鉱山(アメリカ)産。 方鉛鉱はハンマーで軽く叩くと、完全な劈開(方向性のある割れ方をする)があるので、サイコロ状に割れます。

方鉛鉱ーGALENA(ガレナ)。
方鉛鉱はハンマーで軽く叩くと、完全な劈開(方向性のある割れ方をする)があるので、このようにサイコロ状に割れます。

もし鉱石検波器を自作しようとして鉱物をお探しになり、ミネラルショーや鉱物専門店にお出かけになるなら、私としては紅亜鉛鉱(こうあえんこう)”Zincite”ジンサイトという酸化亜鉛の鉱物をオススメします。この鉱物は地球上では北アメリカのニュージャージー州のフランクリン鉱山でしか現在は産出しないものですが、安価であるばかりか、感度も飛び抜けて安定しているからです。

紅亜鉛鉱(こうあえんこう)ZINCITEZ(ジンサイト)。北アメリカのニュージャージー州のフランクリン鉱山しか現在は産出しない。

紅亜鉛鉱(こうあえんこう)ZINCITEZ(ジンサイト)。北アメリカのニュージャージー州のフランクリン鉱山しか現在は産出しない。標本の赤い部分がそうです。

もちろん一見そんな特殊な鉱物が手に入らなくても、驚くような感度を期待しなくても良いならば、サビびた針や釘でも検波はできます。ただサビといっても赤サビでは直流抵抗も高く安定しないので、俗にいう黒サビのものでなければ具合は悪いのです。黒サビのついた針はあまり正確な方法ではありませんが、コンロなどで赤く焼いて自然冷却したような方法で用意します。あるいは本当は電池と抵抗体で2ボルト以下のバイアス電圧を印加すると、古くなったカミソリと鉛筆の芯でも優れた検波器を製作できます。

カミソリと鉛筆の芯によって作られた検波器を使った鉱石受信機。1940年代の米国の記事から小林健二が復刻したもの。W148xD98xH40mm

カミソリと鉛筆の芯によって作られた検波器を使った鉱石受信機。1940年代の米国の記事から小林健二が復刻したもの。W148xD98xH40mm

少し風変わりな検波器といえば、表面に金属を蒸着して、アクセサリーの一部とした販売されている水晶やガラス製品、あるいは2本のシャープペンの芯などに縫い針を渡した構造のものでも検波できることがあるのです。検波する原理はダイオードを発明する以前よりアンダーグランドにあったことは歴史的に説明されていて、その原点となるのは鉱石検波器であることは明白なことと思います。(*現在の電気の歴史上あまり重要とされていない)

右は鉛筆の芯とその間に置かれた縫い針とで検波する変わった検波器。(小林製作) 左はおもて面に酸化チタンを蒸着メッキした水晶。小林によると使い方で検波も可能とのこと。

右は鉛筆の芯とその間に置かれた縫い針とで検波する変わった検波器。(小林健二製作)
左はおもて面に酸化チタンを蒸着メッキした水晶。小林によると使い方で検波も可能とのこと。

しかしながらその作動原理ということになると、ダイオードはまさに半導体のPN接合による理論体系の上で製作されており、正孔や自由電子の振る舞いによって淀みなく説明でき流のですが、鉱石検波器及びそれに準ずる検波器については必ずしもこの方法論だけでは説明仕切れないというところがあります。私にはそれもまた鉱石受信機の魅力の一つとなっています。

私としては鉱石受信機全体について虜になった人間として、その魅力についてもっと語りたいのですが、現在オーディオ雑誌である「MJ 無線と実験」誌上であまりくどくど説明するとかえって逆効果になりかねないのでこの辺にしておきましょう。

ゲルマニュームダイオード今昔。下方が比較的新しいもの。

ゲルマニュームダイオード今昔。下から5本目はその上のものと同じで、プラスチックのカラーを外したもの。下方の2本が比較的新しいもの。

米国シルバニア社製のゲルマニュームダイオード。1940年代の製品としてはもっとも初期のものの一つ。

米国シルバニア社製のゲルマニュームダイオード。1940年代の製品としてはもっとも初期のものの一つ。

ただ最後に鉱石ラジオの音について少し述べさせていただくと、それはまさに小さくとも透き通った音なのです。私の製作した鉱石ラジオを聴いた方は、まずみなさん開口一番このことを話されます。「もっと聴きづらいかと思った」。

確かに三球レフレックスや五球スーパーをお作りになった方はハムやフィードバックのノイズがあることを経験されているので、もっと旧式なものだからきっと聴きづらい、と類推されるようです。1987年に製作した「サイラジオ」と名付けた私のラジオにいたってはその「ピー」とか「ギャー」という一連のそれらしい音をトランジスター回路にサイリスターのノイズを入れるようにして作ったほどです。

もちろん単純にコイルとコンデンサーそして検波器だけで製作した鉱石ラジオは分離特性が悪いため、異局の混信は免れませんし、バリコンを動かしてみたところで、常に他局の放送が被っていて同調器をいじってみたところで主客が入れ替わる程度の分離状態です。

ところがどうでしょう。数分もラジオに戯れていると、少しづつ放送が聴こえてくるではありませんか。頭を冷静にして考えてみるとラジオは特に何も変化はなく、変わっていったのは自分の耳の方だと気づいたのです。無意識のうちにノイズとサウンドの主客が認識されると、自分の中の感性がラジオの足りなかった分離特性を補っていたのです。

小林の生家の全身。当時、神田にあった「蓄晃堂」

小林の生家の全身。当時、神田にあった「蓄晃堂」

これは私がかつてある日の実験中に感じた出来事の一つですが、その時私は昔母や父から聞いたいくつかのエピソードを思い出していました。それは戦争中の話にさかのぼりますが、実家はその頃、新橋で『蓄晃堂』というレコード店を営んでおりました。昭和19年から20年にかけて空襲は本土へ日ごとに多く、また激しくなっていったそんなある寒い朝、家からそう遠くない場所にある日本楽器(現ヤマハ)に直撃弾が落ちのです。その時の空襲は火災は思うほどではないのに空が暗くなったと見上げると、空一面におびただしい楽譜や譜面が飛び交っていたそうです。そしてその現場に当時貴重であったそれらの譜面を一枚でも水や火に当てまいと母たちは走っていった時、まるで嵐のように風に舞い散る現場に着くと、すでに数十人の人たちが早々と防空壕から出てきていて手分けしてそれらを拾い集めていたというのです。母は「この国には本当に音楽好きが多いんだね」と感動し、自分もすぐにその仲間に加わったとのことでした。

その頃本当に物がなくて、入手ルートから粗製のレコード針が入ってくると、空手警報の最中でも情報を知った人々が集まりすぐに売り切れになったそうです。母の自慢はそんな時でも、誰も彼もが一箱づつしか買っていかなかったということでした。ちなみに母がいつも笑って言っていたのは、そのレコード針の箱絵には『RCAのラッパと犬』ではなく「あんな時代だからラッパと招き猫だった」とのこと。まさに音楽が生きるためにあった時代だったのですね。

私がやがてバンドに夢中になった頃「全くSP盤って雑音だらけだね」というと、父はよくそれはお前の耳が悪いからだと言っていました。昔の人は何かと昔を懐かしがる、だから雑音だってここと良いんだと言わんばかりにしか思わなかった私ですが、鉱石ラジオを作るようになってから、少しづつ考えが変わりはじめるようになったのです。

確かに今までの自分はいつの間にか機器にばかり凝ってかえって音楽よりノイズばかりを気にして聴いていたのではないのではと思ったりもしたからです。それ以来、私はあえてノイズを付加したようなラジオを作らない代わりに、ノイズに対してやたら反応する耳ではなくて雑音の海の中の音楽をすくいだし、そして楽しめる耳と心を持ちたいと考え始めたのです。

そしてそれはあの命がけの音楽の時代に生きた、今は亡き父と母から一つの通信を鉱石ラジオによって受け取ったのではないかという、そんな気もしてならないのです。

小林健二

[鉱石ラジオを楽しむ]前編

KENJI KOBAYASHI

[鉱石ラジオを楽しむ] 前編

*「無線と実験(1998年2月)」の記事より編集抜粋し、画像は記事を参考に付加しております。

小林健二製作の鉱石ラジオやゲルマジオ、鉱石ラジオキットや代表的なコレクションなど。

小林健二製作の鉱石ラジオやゲルマラジオ、鉱石ラジオ部分品、鉱石検波器、鉱石ラジオキットや代表的なコレクションなど。

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通巻900号おめでとうございます。現れては消える昨今の雑誌状況の中で通巻900号、’74年の続刊はまさに『継続は力なり』を感じさせ、また同時にどれほど多くの読者に親しまれ支持されて来たかを彷彿とさせてくれます。

私の実家も以前蓄音機やレコードを扱う仕事をしていたためか、子供の頃店に常に数冊の「無線と実験」があったことを思い出します。おそらく親子三代に渡り愛読されている方々もあるかも知れません。私のようにこの雑誌のファンの一人としてあった者が、通巻900号の記念号に記事を寄せることができたというのは誠に幸せなことであります。

創刊時に於いてはその発行の辞にあるように『無線科学普及の目的を以て本誌を創刊せり』とあり、まさに『無線と実験』の銘が示すとおり、高周波系の内容であったことは周知のとおりであります。そこでとりわけ戦前の記事の中に登場した鉱石ラジオなる、半ば幻想的な受信機について少々述べさせていただき、まさに我が国の電子世界の幕開けの時代を、当時を知る方々に回想を持って、そして、未知の方々には一種の追体験をしていただけたらと思う次第です。

「鉱石受信機」とは、検波部に鉱物の結晶を用い、電池や家庭交流電燈などからの電源を用いなくても作動する受信機のことです。(感度を上げるため、電池で検波器にバイアス電圧を印加するタイプも一部にはありました)

この受信機の活躍した期間はそれほど長くはなく、最も象徴的な構造を持っている『さぐり式』に至っては、実質10数年と言っても過言ではないほど短命でありました。歴史的な存在としてそのような『さぐり式鉱石ラジオ』を知っておられる方々も時々お会いしますが、実際にその受信機で放送を聴いていたという方はすでに稀になっていると言えるでしょう。

製品としての当初の鉱石受信機は、高価な割には工作法さえ知っていれば原理的な事柄を熟知していなくても製作することができるため、当時の科学少年たちによっていたるところで作られました。JOAK開局当時はまだ一局しか放送所がなかったわけですので、同調回路も基本的には省くことができ、検波用鉱石とハイインピーダンスのヘッドフォン、それに空中線と接地線をつなぐことですぐに放送を聴取できたのです。それらは実用的な側面が中心であったことは確かですが、事実彼らラジオ工作少年たちの背景を考えれば、聴こえるはずのない『魔法の声』との出会であったということです。

現代に生活する私たちにとってテレビやファックス、携帯電話は日常的な機器です。しかしながら「無線と実験」が創刊されたり、ラジオ放送が始まった時代では、ただの箱に見えるものから人の声が聴こえてくるということは、まさにそれだけで驚きであったのでしょう。その不思議さからその後電気の世界に入り、やがて電気製品の開発や普及をする現代の電子企業の礎を創った人々も多いと聞きます。

何事も巨大化し複雑になっていくように見える現代、鉱石受信機のような素朴で親しみやすい ラジオを作ることで、いろいろな方々が趣味の工作を楽しまれるということを、私は望んでいるのです。

JOAK開局から間もない頃、当時のVIPに贈呈された珍しい鉱石受信機。固定式鉱石検波器が使用されている。(小林健二蔵) W140xH67xD102mm

JOAK開局から間もない頃、当時のVIPに贈呈された珍しい鉱石受信機。固定式鉱石検波器が使用されている。(小林健二蔵)W140xH67xD102mm

国産の鉱石受信機

国産の鉱石受信機

検波器はまだ完全にはレストアされていない。内部はしっかりとしており、表の検波器と並列に内部に「フォックストン」と呼ばれる古河電気の固定式の検波器がついているのが面白い。下部の引き出しには受話器が入っている。(小林健二蔵)W260xD227xH270mm

検波器はまだ完全にはレストアされていない。内部はしっかりとしており、表の検波器と並列に内部に「フォックストン」と呼ばれる古河電気の固定式の検波器がついているのが面白い。下部の引き出しには受話器が入っている。(小林健二蔵)W260xD227xH270mm

私自身はゲルマラジオを含めると、自作した鉱石式受信機は数十台あって、その一つ一つ形状や大きさ、回路や部品など、それぞれを色々に変化させてりして楽しんでいます。オモチャっぽいもの、昔式の重厚なもの、歴史的には姿を現さなかった創造的なものなどです。回路自体がとてもシンプルなため、その時の思いのままに製作できて工作の楽しみを味わうのにこの上ないテーマを与えてくれます。鉱石ラジオやゲルマラジオというと、やはり子供っぽい玩具的なイメージがあるようですが、初期の鉱石式受信機というと必ずしもそうではありません。そんなタイプの昔風の鉱石受信機について少し述べてみたいと思います。

[昔風鉱石受信機] つまみ、ターミナル、ノッチスイッチ、検波器の金属ホルダー、コイル、バリコン、木製筐体まで全て小林健二の手製。W340xD203xH185mm

[昔風鉱石受信機]
つまみ、ターミナル、ノッチスイッチ、検波器の金属ホルダー、コイル、バリコン、木製筐体まで全て小林健二の手製。W340xD203xH185mm

昔風鉱石受信機の内部 小林健二手製のバリコン、バリオメーター、バリコカップラーなど

昔風鉱石受信機の内部
小林健二手製のバリコン、バリオメーター、バリオカップラー、接合型鉱石検波器など

バリコンの製作

バリオメーターの製作

バリオカップラーの製作

ガラスケースに収めた接合型鉱石検波器(小林健二製作)

ガラスケースに収めた接合型鉱石検波器(小林健二製作)

接合型鉱石検波器の製作

 

*鉱石ラジオの部分品の製作記事をリンクしておりますので、参考にしてください。

写真にありますように外観は何か測定器のような感じで、子供の頃のなつかしい思い出と照らすとちょっと異なって感じる方もおいででしょう。しかし、鉱石受信機とは当初このようなものでした。構造的にはゲルマラジオとほとんど同じく、同調回路と検波部、そして受話器や空中線、接地線といった構成です。このタイプの鉱石受信機を製作する楽しみは、高い電源電圧が印加されないパーツにおいて、安全に各部品の工作をすることができるということです。

通常バリコンのような精度を要求される機械的構造を持つパーツは、アマチュアには製作できないと言われていますが、コンデンサーの原理を考えれば簡単なところから始めていくと工作的には難しいことはありません。

そして段々と工作技術が進んでいけば、写真のような機械的にも安定し、見栄えもそう悪くないエアバリコンを製作することも想像よりはるかに楽しんでできると思います。私自身仕事の上で金属加工をすることはありませんし、このバリコンを作るにあたっても旋盤などの専門的に見える機械はほとんど使用しないで作業を行いました。もちろんボール盤があると工作全般、何においても便利ですが、あとは糸ノコとヤスリくらいで製作可能です。

これらのバリコンを作る技術がありますと、今ではほとんど入手不可能となったタイプのバリコンも自分の望んだように製作できますし、壊れてしまった部分品を修理することもできます。また下辺を必要としないコンデンサーであれば、さらに色々とつっこんだものも製作可能です。

もし外形がメーカー製と比べて大きめになってしまっても構わないならば、様々な方法で容量、特性、体圧のものを作ることができるでしょう。

次にコイルですが、鉱石ラジオといえばスパイダーコイルを連想される方もいると思いますが、実際はソレノイドコイルかそれに準じたタイプのものが多かったようです。ただ今日の自作コイルと比べると特性の良いコイルの理論が確立していなかったのと、手作りでは量産向きではないものや、少々特性などを犠牲にしても機械的に作りやすいものとかがいりみだれていて、まさに様々な形状のコイルがありました。たいていの場合、工作的に考えればどれも興味深く色々と作ってみたくなるものばかりです。

小林健二自作のコイルの一部。左上から二番目の黄色い線を使用しているコイルは小林健二設計による名付けて「クラウンコイル」

小林健二自作のコイルの一部。上の左から二番目の黄色い線を使用しているコイルは、小林健二設計による名付けて「クラウンコイル」

海外ではこの黎明期のコイルを、ちょうど真空管をコレクションするのと同じように集める人も多いと聞いたことがあります。実際私自身も色々な文献などで変わったコイルの記事や写真を見て、とりあえず実験的に作ってみると、確かにだんだんとコイルだけでも面白くなって、今までに随分とたくさん作ってしまいました。鉱石ラジオのコイルを作る理論上では、基本的に線間に発生するコンデンサー成分をなるべく少なくすることでQ(クオリティー)の向上を図るようです。そんなわけで昔はやった女の子たちのリリアンのようにバスケットコイルやパンケーキコイルを作るのは楽しいものです。

コイルでも可変インダクターとして使用されるバリオメーターやバリオカップラーについては、高度なバリコンを作るのと同じように相当する技術が必要になりがちです。しかしながらバリコンやバリアブルインダクターにしても、ピンからキリまで対応できるというのも鉱石ラジオの特性のひとつでしょう。

小林健二

1986年に小林健二が夢の中で見たラジオを最初に作った「サイラジオ」第1号、音量とともに頭部の色が変わり明滅する。

1986年に小林健二が夢の中で見たラジオを最初に作った「サイラジオ」第1号、音量とともに頭部の色が変わり明滅する。

故渋澤龍彦氏へのオマージュとして’87年に作られたサイラジオの第2号。「悲しきラヂヲ」と名付けられている。一号機と同じく上部の結晶の色は明滅して変わる。下部には青色に光る環状列石のような石英が配されている小部屋がある。「サイラジオ」は鉱石ラジオではない。

故渋澤龍彦氏へのオマージュとして’87年に追悼のための本が作られた。存命中「サイラジオ」一号が小林健二個展に展示され、氏が訪れた時に展示場所が地下で電波がうまく受信できずにいた、そんな思いからか本の記事にさいし、サイラジオの第二号を小林は製作。「悲しきラヂヲ」と名付けられている。一号機と同じく上部の結晶の色は明滅して変わる。下部には青色に光る環状列石のような石英が配されている小部屋がある。「サイラジオ」は鉱石ラジオではない。

*以下、小林健二の不思議な電気を使用した作品を紹介します。

すでに1000人ほどの人がこの不思議な受信機から「過去の放送」を聴いたと言われる。 [IN TUNE WITH THE PAST TENSE]と名付けられた作品。

すでに1000人ほどの人がこの不思議な受信機から「過去の放送」を聴いたと言われる。
[IN TUNE WITH THE PAST TENSE]と名付けられた作品。

小林健二作品[IN TUNE WITH THE PAST TENSE] 「地球溶液」と言われるアース部分。

小林健二作品[IN TUNE WITH THE PAST TENSE]
「地球溶液」と言われるアース部分。

小林健二作品[IN TUNE WITH THE PAST TENSE] 透きとおった鉱物にタングステンの針を当てて検波すると、クリスタルイヤフォンで放送を聴くことができる。

小林健二作品[IN TUNE WITH THE PAST TENSE]
透きとおった鉱物にタングステンの針を当てて検波すると、クリスタルイヤフォンで放送を聴くことができる。

小林健二作品[夜光結晶短波受信機] 後ろの箱は電源。ディテクター(左)、スピーカー、本体(右)

小林健二作品[夜光結晶短波受信機]
後ろの箱は電源。ディテクター(左)、スピーカー、本体(右)

小林健二作品[夜光結晶短波受信機] 高さ18.5cmの小さなスピーカー。金属の鋳造によって作られている。

小林健二作品[夜光結晶短波受信機]
高さ18.5cmの小さなスピーカー。金属の鋳造によって作られている。

小林健二作品[夜光結晶短波受信機] ディテクター(検波部)、中の発光し透き通る赤色と緑色の石を、青色に光っている金属に当てるとヅピーカーから音が聴こえる。

小林健二作品[夜光結晶短波受信機]
ディテクター(検波部)、中の発光し透き通る赤色と緑色の石を、青色に光っている金属に当てるとスピーカーから音が聴こえる。

 

[鉱石ラジオを楽しむ]後編

KENJI KOBAYASHI

 

 

「懐かしい」って不思議な言葉

懐かしいと言ったら、ぼくはやっぱり駄菓子屋さんかな。安いけど工夫された楽しさが溢れていた。いつもお店は子供たちでいっぱいで、知らない同士でもすぐ友達になれたものだった。それから模型屋と科学博物館だね。

模型は飛行機で、日本やヨーロッパのものが好きだった。透明な風防の中を覗いていると、誰かが座っていそうで、中から見える風景を想像してワクワクしていたんだ。学校をズル休みして時々行った科学博物館は古めかしくて重厚で、それがまたなんとなく神秘的で素敵だった。

一人一人の懐かしい思い出はそれぞれに個人的なことが多いけれど、雑誌やテレビ番組なんか同世代だと共通していたりするよね。ぼくは昭和32年生まれだから、鉄腕アトムやウルトラQの時代かしら。

健二製作のプラスチックモデル(スケール1/72)

健二製作のプラスチックモデル(スケール1/72)

雑誌なら「少年」そして「マガジン」や「サンデー」も懐かしい。でもテレビの「恐怖のミイラ」や「マリンコング」「アウターリミッツ」や「世にも不思議な物語」なんかはどうだろう。ぼくは不思議なことがとりわけ好きでよく見ていた。

そういえばこの「懐かしい」って言葉も不思議だね。なぜかっていえば、それは記憶や思い出の中でもきっといいもの、あるいは今となってはいいものばかりなんだ。英語や仏語でも思い出を表す語は色々あると思うけど、思い出すのは必ずしもいいことばかりでないから、いい感じの思い出、素晴らしい記憶といったように、一語で「懐かしい」といえる言葉って他の国ではあまりないようだものね。

「懐かしさ」って全てを肯定しているからこそ口をついて出てくるんだと思う。

そんな文化を持っているぼくらの国なのに、今は何もかもが早く過ぎていき、少しみんな疲れているんじゃないかしら。だから今よりも時間がもっとゆっくり流れていた昔見たような風景なんかに出会うと、思わずそこでしばし休息したくなるんじゃないかしら。

小林健二

*2000年のメディア掲載記事を編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

*下記は富山県立近代美術館での展覧会図録に寄せられていた文を抜粋し、これも画像は新たに付加しています。

「TOYAMA ART NOW-ポーランドと日本」の図録

「TOYAMA ART NOW-ポーランドと日本」図録の小林のページの一部

子供の頃読んだ本の中に、片方の目にだけある不思議な薬を塗ると、普段ならみえないたくさんの宝石が見える、というような内容のものがありました。結局その主人公は、もっとよく見ようとして両目に塗ってしまい、何も見えなくなってしまうのですが、その本の挿絵を見てはしゃいでいるものがありました。ぼくはとりわけその絵が好きでした。

ぼくはまた、古代の世界やそんな時代に書かれたものかもしれない書物とはいかなるものかと考えたり、ある日机の引き出しを開けるとその中で青い発光体が静かに浮かんでいるといった幻について想ったりしていることが好きです。

ぼくはそのような隠れたとこや見えにくい場所に、何か素敵な宝物があるような気がしてなりません。そして、そんな目に見えない透明な通信で交わせる世界があることを信じているのです。

小林健二

2000年に開催された別の個展での展示

2000年に開催された別の個展での展示。この時は広い会場が3部屋に分かれていて、第一室は小林健二のアトリエを彷彿とさせる展示内容になっていました。

小林健二作品

小林健二作品「セフェルイエッジラーの書」シリーズ

小林健二作品「ゾハールの書」

小林健二作品「ゾハールの書」

KENJI KOBAYASHI

 

鉱石ラジオの実際(その3)

前回の続きです。

鉱石ラジオとは、いったいどのような姿をした受信機だったのでしょう。ぼくのコレクションのなかから、当時のものをいくつかお目にかけたいと思います。

英国製でメーカーはわかりませんが、 1920年代のものです。内部には大きなコイルが1つとマイカの固定コンデンサーが入っています。検波器の内部には、見た目には方鉛鉱と思える人工鉱石が入っています。H180× W225× D152(mm)

英国製でメーカーはわかりませんが、 1920年代のものです。内部には大きなコイルが1つとマイカの固定コンデンサーが入っています。検波器の内部には、見た目には方鉛鉱と思える人工鉱石が入っています。H180× W225× D152(mm)

検波器の拡大

検波器の拡大

この大きなコイルが特徴的なものは英国製です。メーカーは不詳ですが、一種のキットのようにして1930年代に米国でも同じタイプのものが多く造られました。 検波器には黄鉄鉱が使われています。H200X W213× D170(mm)

この大きなコイルが特徴的なものは英国製です。メーカーは不詳ですが、一種のキットのようにして1930年代に米国でも同じタイプのものが多く造られました。
検波器には黄鉄鉱が使われています。H200X W213× D170(mm)

これはラジオの部品のパーツです。左のコイルはチューニングコイルでまん中の真鍮の工をうごかして使います。右のものは米国フィルモア社製のさぐり式検波器のキットです。

これはラジオの部品のパーツです。左のコイルはチューニングコイルでまん中の真鍮の工をうごかして使います。右のものは米国フィルモア社製のさぐり式検波器のキットです。

米国ブローニングドレイク社製で1920年代のものです。ヴァリオカップラーを使ってあります。検波器はガラス製のカップの付いたかわいらしいものです。H163× W152 X D178(mm)

米国ブローニングドレイク社製で1920年代のものです。ヴァリオカップラーを使ってあります。検波器はガラス製のカップの付いたかわいらしいものです。H163× W152 X D178(mm)

検波器の拡大

検波器の拡大

英国の1920年代のメーカー製でとても端正に造られています。検波器は接合 型で感度もよいものです。 H195X175X175(mm)

英国の1920年代のメーカー製でとても端正に造られています。検波器は接合
型で感度もよいものです。
H195X175X175(mm)

このように立派に見える昔の鉱石ラジオもたいていは中にコイル1つだけということが多く、かえって不思議な感じがすることがあります。

このように立派に見える昔の鉱石ラジオもたいていは中にコイル1つだけということが多く、かえって不思議な感じがすることがあります。

英国でアマチュアによって1940年代に製作されたと思われるものです。パーツは自分の好きなものを集めて作ってあります。 H225× W233 X D163(mm)

英国でアマチュアによって1940年代に製作されたと思われるものです。パーツは自分の好きなものを集めて作ってあります。 H225× W233 X D163(mm)

検波器はとりわけ高級品で、鉱石には黄鉄鉱が使用してあります。

検波器はとりわけ高級品で、鉱石には黄鉄鉱が使用してあります。

英国のアマチュアが1950年代に製作したと思われるものです。当時の金属製 のフィルムケースや試験管を使って作っています。中にはコイルと小さなヴァリ コンが入っています。H140× W130×D130(mm)

英国のアマチュアが1950年代に製作したと思われるものです。当時の金属製 のフィルムケースや試験管を使って作っています。中にはコイルと小さなヴァリ コンが入っています。H140× W130×D130(mm)

米国のミゼットラジオ社製のもので、 1939年から造られ始めたものです。中には木の角棒に巻いたコイルがあり、その本に穴をあけて中に検波器を埋め込んでありますが、外観はともかくメーカー製のイメージからは想像しにくいほど手作りの感じです (ヘッドフォンはフィルモア社製)。H53XW80×D48(mm)

米国のミゼットラジオ社製のもので、 1939年から造られ始めたものです。中には木の角棒に巻いたコイルがあり、その本に穴をあけて中に検波器を埋め込んでありますが、外観はともかくメーカー製のイメージからは想像しにくいほど手作りの感じです (ヘッドフォンはフィルモア社製)。H53XW80×D48(mm)

フィルモア社製ヘッドフォンと接続したミゼットラジオ。

フィルモア社製ヘッドフォンと接続したミゼットラジオ。

米国のミゼットラジオ社製のラジオの内部

米国のミゼットラジオ社製のラジオの内部

これは1925年製の英国ジェコフォン“ジュニア"と呼ばれるものです。方鉛鉱を用いた検波器で精度高く造られています。通常300~ 500 mの波長に対応していますが、H75× W145× D206(mm)

これは1925年製の英国ジェコフォン“ジュニア”と呼ばれるものです。方鉛鉱を用いた検波器で精度高く造られています。通常300~ 500 mの波長に対応していますが、H75× W145× D206(mm)

内部はヴァリコンと木の棒を芯としたコイルによって構成されています。

内部はヴァリコンと木の棒を芯としたコイルによって構成されています。

検波器の下のU字型のショートプラグをはずし別売のコイルを差し込むと1600 mく らいまでの波長にも対応できるようになっています。

検波器の下のU字型のショートプラグをはずし別売のコイルを差し込むと1600 m らいまでの波長にも対応できるようになっています。

*この記事は、小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しております。

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鉱石ラジオの実際(1)

鉱石ラジオの実際(2)

KENJI KOBAYASHI

鉱石ラジオの実際(その2)

前回の続きです。

鉱石ラジオとは、いったいどのような姿をした受信機だったのでしょう。ぼくのコレクションのなかから、当時のものをいくつかお目にかけたいと思います。

戦前の日本製です。おそらくアマチュアの手製のものです。H112 X W192 X D90(mm)

戦前の日本製です。おそらくアマチュアの手製のものです。H112 X W192 XD90(mm)

しかし内部はていねいに仕上げてあります。今のように絶縁物のパイプが入手しづらかったためか、コイルのボビンはエボナイトの板に熱をあたえて丸めて自作してあります。検波器とヴァリコンは輸入された製品を使用しています。

しかし内部はていねいに仕上げてあります。今のように絶縁物のパイプが入手しづらかったためか、コイルのボビンはエボナイトの板に熱をあたえて丸めて自作してあります。検波器とヴァリコンは輸入された製品を使用しています。

これは昭和30年代のゲルマラジオの付いた時計で、東京時計社製です。クリーム色のベークライトのボディで、クリスタルイヤフォンが2つついていて2人で放送を聞けるようになっています。H113× W193 X D54(mm)

これは昭和30年代のゲルマラジオの付いた時計で、東京時計社製です。クリーム色のベークライトのボディで、クリスタルイヤフォンが2つついていて2人で放送を聞けるようになっています。H113× W193 X D54(mm)

戦前の日本製でこのラジオと最初に出会ったときは、すべてがメチャクチャにこわれていました。時間をかけてツマミを作リコイルを巻きなおしヴァリコンをなおして、できるかぎり当時の状態を再現してみたものです。ほとんどのパーツがひどいダメージを受けていたのにかかわらず、茶色になったセロファンに包んだ方鉛鉱がピカピカのまま箱の底に入っていたのは印象的でした。 H162 X W212× D114(mm)

戦前の日本製でこのラジオと最初に出会ったときは、すべてがメチャクチャにこわれていました。時間をかけてツマミを作リコイルを巻きなおしヴァリコンをなおして、できるかぎり当時の状態を再現してみたものです。ほとんどのパーツがひどいダメージを受けていたのにかかわらず、茶色になったセロファンに包んだ方鉛鉱がピカピカのまま箱の底に入っていたのは印象的でした。
H162 X W212× D114(mm)

これは英国で作られた手製のものです(おそらく1920年代)。手製とはいってもパーツは高級品で、作りも下手なメーカー製よりしっかりと出来ています。 H162 X W215× D185(mm)

これは英国で作られた手製のものです(おそらく1920年代)。手製とはいってもパーツは高級品で、作りも下手なメーカー製よりしっかりと出来ています。
H162 X W215× D185(mm)

検波器の台はステアタイト(磁器)製です。

検波器の台はステアタイト(磁器)製です。

内部にはコイルが1つ入っていますが、色のあざやかな綿巻線の1.3mmくらいの大いものを使っています。またコイルを止めているのは革の帯です。

内部にはコイルが1つ入っていますが、色のあざやかな綿巻線の1.3mmくらいの大いものを使っています。またコイルを止めているのは革の帯です。

米国製の学生を対象に作られたクリスタルセットのキットです。(写真ではラジオは完成しています。)キットクラフトプロデュース社製(1950年代)で、作り方と簡単な原理を説明した20頁の小小冊子がついて充実しています。 H40× W78X D85(mm)

米国製の学生を対象に作られたクリスタルセットのキットです。(写真ではラジオは完成しています。)キットクラフトプロデュース社製(1950年代)で、作り方と簡単な原理を説明した20頁の小小冊子がついて充実しています。 H40× W78X D85(mm)

ドイツ製の子供用のクリスタルセットです。赤いベークライト製で、中には小さなコ イルとヴァリコンが入っています。付属品として別の箱に人った片耳ヘッドフォンと小さな箱に入ったイタリア製の検波器が付いています。H42X W72 X D101(mm)

ドイツ製の子供用のクリスタルセットです。赤いベークライト製で、中には小さなコ
イルとヴァリコンが入っています。付属品として別の箱に人った片耳ヘッドフォンと小さな箱に入ったイタリア製の検波器が付いています。H42X W72 X D101(mm)

*この記事は、小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しております。

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鉱石ラジオの実際(その1)

鉱石ラジオとは、いったいどのような姿をした受信機だったのでしょう。ぼくのコレクションのなかから、当時のものをいくつかお目にかけたいと思います。

これは米国フェデラル社製で、フェデラルジュニアと呼ばれるものです。ボディは金属製で表と裏にそれぞれアンテナとディテクターをコイルヘ接合する可変ノブがついています。1910年頃のものです。H235× W215× D145(mm)

これは米国フェデラル社製で、フェデラルジュニアと呼ばれるものです。ボディは金属製で表と裏にそれぞれアンテナとディテクターをコイルヘ接合する可変ノブがついています。1910年頃のものです。H235× W215× D145(mm)

この鉱石ラジオを広告として掲載していた書籍のページ

この鉱石ラジオを広告として掲載していた書籍のページ

ディテクターは厚いエボナイト板の上に取り付けられていて方鉛鉱がついています。

ディテクターは厚いエボナイト板の上に取り付けられていて方鉛鉱がついています。

内部には大きなコイルとマイカのコンデンサーが入っています。

内部には大きなコイルとマイカのコンデンサーが入っています。

これは日本の戦前のもので製品を改造してありました。入手当時、ツマミや端子の片方がこわれていたので、レストアしたものです。中には金属製のヴァリコンとスパイダーコイルが2つ入っています。 H173× W162 X D110(mm)

これは日本の戦前のもので製品を改造してありました。入手当時、ツマミや端子の片方がこわれていたので、レストアしたものです。中には金属製のヴァリコンとスパイダーコイルが2つ入っています。 H173× W162 X D110(mm)

戦前の日本製でほぼ完全な状態のものです。色があざやかでかわいらしく、中は混信分離というツマミのうらにコイルがあって、電波同調の方にはヴァリコンが入っています。メロディークリスタルラジオという名前もかわいいと思います.。H100x172xD48(mm)

戦前の日本製でほぼ完全な状態のものです。色があざやかでかわいらしく、中は混信分離というツマミのうらにコイルがあって、電波同調の方にはヴァリコンが入っています。メロディークリスタルラジオという名前もかわいいと思います.。H100x172xD48(mm)

メロディークリスタルラジオの内部

メロディークリスタルラジオの内部

米国フィルモア社製の赤いベークライトのボディのものです。このフィルモア社ではこのようなかわいい学生用のクリスタルセットをいろいろつくっていて日本にも輸入されていたようなので、ごぞんじの人もいると思います。H40×W8×D95(mm)

米国フィルモア社製の赤いベークライトのボディのものです。このフィルモア社ではこのようなかわいい学生用のクリスタルセットをいろいろつくっていて日本にも輸入されていたようなので、ごぞんじの人もいると思います。H40×W8×D95(mm)

内部の状態。

内部の状態。

これは米国製のものです。タップのついたコイルと大きなエアーヴァリコン、それに受話器用のマイカ製コンデンサーが人っています。また、フロントのダイヤルはヴァリコン用ですが、さらにその中心にあるノブでヴァリコンのいちばんうしろに別についている羽1枚を動かして微調整できるようになっています。H200 X lV137× D110(mm)

これは米国製のものです。タップのついたコイルと大きなエアーヴァリコン、それに受話器用のマイカ製コンデンサーが人っています。また、フロントのダイヤルはヴァリコン用ですが、さらにその中心にあるノブでヴァリコンのいちばんうしろに別についている羽1枚を動かして微調整できるようになっています。H200 X W137× D110(mm)

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これは米国レオン・ランバート社のものです。このラジオの特徴はまるでブラシのような検波器の針の部分です。ちょっと見にはどうも感度が悪そうですが実際にはそうでもありません。中にはコイルが1つ入っています。ラジオの底にはどういうわけかクリスタルラジオカンパニー社の広告が貼ってあり、「もしあなたが真空管ラジオをほしければ、2球、 5球、 6球ラジオでも安くお売りできます。この$5.95のランバートラジオを当方に送っていただければいつでもいかなる真空管ラジオもお売りすることができます。」等と書いてあります。 H115× W160× D118(mm)

これは米国レオン・ランバート社のものです。このラジオの特徴はまるでブラシのような検波器の針の部分です。ちょっと見にはどうも感度が悪そうですが実際にはそうでもありません。中にはコイルが1つ入っています。ラジオの底にはどういうわけかクリスタルラジオカンパニー社の広告が貼ってあり、「もしあなたが真空管ラジオをほしければ、2球、 5球、 6球ラジオでも安くお売りできます。この$5.95のランバートラジオを当方に送っていただければいつでもいかなる真空管ラジオもお売りすることができます。」等と書いてあります。
H115× W160× D118(mm)

ディテクター部分のアップ

ディテクター部分のアップ

これは英国のブラウニーワイヤレスカンパニー社製です。1920年のものでNo 2モデル鉱石受信機として有名なものの1つです。BBCのマークが入っています。全体は黒のエボナイトで作られていて、上部のコイルを差し替えることができるようになっています。H210× W153×D145(mm)

これは英国のブラウニーワイヤレスカンパニー社製です。1920年のものでNo 2モデル鉱石受信機として有名なものの1つです。BBCのマークが入っています。全体は黒のエボナイトで作られていて、上部のコイルを差し替えることができるようになっています。H210× W153×D145(mm)

コイルの色々

コイルの色々

底にある黒色のファイバー製のフタをあけるとコイルが1つ入っていて、ツマミを回すとまん中のレバーが動くようになっています。

底にある黒色のファイバー製のフタをあけるとコイルが1つ入っていて、ツマミを回すとまん中のレバーが動くようになっています。

検波器のガラス管は底側の半分が白くフロスト加工されていて針が見やすく工夫されています。

検波器のガラス管は底側の半分が白くフロスト加工されていて針が見やすく工夫されています。

1920年代の英国製でやはりBBCのマークが入っています。たて型のむき出しのコイルについているノブをスライドさせて同調を取るようになっています。検波器には方鉛鉱がついています。H180X W157× D207(mm)

1920年代の英国製でやはりBBCのマークが入っています。たて型のむき出しのコイルについているノブをスライドさせて同調を取るようになっています。検波器には方鉛鉱がついています。H180X W157× D207(mm)

底のフタをあけてみると、整然と配線がしてあります。

底のフタをあけてみると、整然と配線がしてあります。

「鉱石ラジオの実際」の続きは、後日アップします。今回は「ぼくらの鉱石ラジオ」に載されなかったものもご紹介予定です。

*この記事は、小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しております。

鉱石ラジオの実際2

鉱石ラジオの実際3

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「見えない」領域が見えてくるカタチ

色とりどりの瓶、様々な形の鉱物、世界各国の工具、膨大な書籍・・・・

小林健二のアトリエは、まるで宇宙の真理を探るマッド・サイエンティストの研究室のよう。訊ねれば、瞳を輝かせて油彩絵の具の製造法から最新の電子工学、聖書や戦没者の遺歌まで話が及ぶ。

「ぼくが好きで調べているだけ」と断りを入れながら、「人間は、長い歴史の中で天然の”もの”と対峙するための手続きをひとつずつ発掘してきた。だけど現代は、便利さに目を奪われて結果しか見ない。それが、どんなに地球と人間自身を損なっているか・・・」。

安易に浪費する一方の現代社会への危機感をにじませる。

1999年頃の小林健二アトリエ(執筆するための部屋の一角)

1999年頃の小林健二アトリエ(執筆するための部屋の一角)

1999年頃の小林健二アトリエ(絵画材料の一部、樹脂や溶剤など。研究資料としても海外から取り寄せたものも並ぶ)

1999年頃の小林健二アトリエ(絵画材料の一部、樹脂や溶剤など。研究資料として海外から取り寄せたものも並ぶ)

1999年頃の小林健二アトリエ(鉱物標本も箱にしまってあるものの他に、実際に仕事場に飾ってあるものも多くある)

1999年頃の小林健二アトリエ(鉱物標本も箱にしまってあるものの他に、実際に仕事場に飾ってあるものも多くある。左側に執筆部屋が見える。)

1999年頃の小林健二アトリエ(車庫を改造して作った書庫。天井まで続く書棚には古今東西から集められた書籍の数々。)

1999年頃の小林健二アトリエ(車庫を改造して作った書庫。天井まで続く書棚には古今東西から集められた書籍の数々。)

彼は一番強い生物。何故ならものを悩んだり、企んだりする脳を持っていないから。彼は一番強い生物。何故なら光の力をそのまま自分の血や肉に変えているから。彼は一番弱い生物。思いっきり愛することのできる重いハートを、4本の足で支えなければならないから。」 小林健二(16歳の時に描いた絵)

「彼は一番強い生物。何故ならものを悩んだり、企んだりする脳を持っていないから。彼は一番強い生物。何故なら光の力をそのまま自分の血や肉に変えているから。彼は一番弱い生物。思いっきり愛することのできる重いハートを、4本の足で支えなければならないから。」
小林健二(16歳の時に描いた絵)

新橋生まれの東京人。幼い頃から博物館に通い、古本屋に出入りしていた。16歳で現在の思考の原型となるインク画を描き、20歳より本格的な創作活動に入る。

心根では人間に対する興味と敬意を抱きつつ、日常では人に会うのが苦手だという。

もの作りに精通した小林の表現は、実に多彩なカタチで現れる。

絵画、立体、大がかりなインスタレーションなど、美術分野だけでなく、詩や音楽も作る。電波を受信するとガラスドームの中の結晶がささやくように明滅するラジオは「ぼくらの鉱石ラジオ」(筑摩書房)を著すきっかけとなった。あらゆるジャンルを横断しながら、すべての作品が、確かに小林健二の手から生まれたという印象を放つ。言葉に置き換えるのは難しいが、世界の根源にアクセスするキーワードのようなものとでも言おうか。

たとえば、東京での新作展では、古い地層から発掘された土器か、未来の機械の部品のような品々が並んだ。作品として”見える”ものは、ささやかで親しみ深い姿形だが、同時に太古の物語や未知の文明など”見えない”領域へ、見るものをの想像力を無限に刺激する。

小林健二作品「夢の授業の出土品」

小林健二作品「夢の授業の出土品」

「夢の授業の出土品」 ぼくは夢の中で小学生のような授業に出席している。先生はムラサキ色とピンク色で、屋外へ出て過去を発掘する実習をするという。地面のいたるところから土器のような焼成物が出土するが、少しもいたんでいないようだ。ぼくの知らない時代や文化のものだが、文字があるものもある。先生はいつのまにかミドリ色になって「確かにその世界は存在している。ただ誰にも見えないんだ。」というような事を言って授業は終わる。

「夢の授業の出土品」
ぼくは夢の中で小学生のような授業に出席している。先生はムラサキ色とピンク色で、屋外へ出て過去を発掘する実習をするという。地面のいたるところから土器のような焼成物が出土するが、少しもいたんでいないようだ。ぼくの知らない時代や文化のものだが、文字があるものもある。先生はいつのまにかミドリ色になって「確かにその世界は存在している。ただ誰にも見えないんだ。」というような事を言って授業は終わる。

小林健二個展「6月7日物語]

小林健二個展「6月7日物語]

「大事な事は、見えないところに潜んでいる。見えるものはひとつの結果に過ぎなくて、見ようとする意志が大切なんだ。ぼくの作品に出合った人それぞれがイマジネーションを広げ、自分の中を探検し、その人なりのものを見つけられたら、そんな素敵な事はないさ。」

これは、流行や虚栄や権威に惑わされ、かえって孤独に陥っている現代人への、小林の祈りに近い想いなのかもしれない。

「アートに力があるとすれば、お互いの価値を認め合い、みんなで話し合える場になることじゃないかな。そうなれば、人は誰も独りじゃないさ。」

鉱石ラジオが受信した音のように、彼の想いは密やかに心に響く。

*1999年のメディア掲載記事を編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

Kenji-Kobayashi-Library from Kenji Channel on Vimeo.

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