科学と魔法の境が曖昧な時期の発明

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ」筑摩書房
*カバーを外すと、中に不思議な色に発光する水晶の写真。

20世紀の初頭に生まれた鉱石ラジオは、半導体工業の原点となったものだ。原理的には電池などの電源がなくても、電波をキャッチすることができる。

「鉱石ラジオは電気工学の黎明期に誕生したもので、原理は本当には解明されていません。すぐにダイオードができて、研究が途中で放棄されたのです。それっきり、すっかり忘れられてしまいました。」

この本には鉱石ラジオの構造と作り方が実に丁寧に解説されているだけではなく、鉱石ラジオにつながる様々な電気的発見、発明の物語や、通信と社会との関わりの歴史が盛り込まれている。美しいカラー図版で収められた昔の、鉱石ラジオや小林さんのオリジナル鉱石ラジオが眺められるのも楽しい。

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ」より(小林健二の鉱石ラジオのコレクション紹介ページ、何ページかに渡り鉱石ラジオが登場する。)

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ」より(自作の鉱石ラジオの紹介ページ。自作不思議ラジオはまだまだ登場する。)

「構造さえわかってしまえば、単純なものから始めて、複雑なシステムに改良することが可能です。この本を趣味の時間、リラックスすることに生かしてもらえればと願っています。読んでくれた人が、自分の作ったラジオを孫にプレゼントできると言ってくれたのは、嬉しかったですね。」

小林さんはジャンルや技法にとらわれない表現活動を展開してきたアーティストである。人はみな得意不得意があり、たまたま美術の世界に進んだのだという。

「子供の頃から好きでやってきたことは、自分のペースで高めていけるし、関心や思いの幅が広がっていきます。人それぞれにアクセスの手段が違う、いろんな個性の人がうまく組み合わさっていくように、世の中はできているのだと思います。」

しかし、現在の社会は並列ではなく序列によって、人の関係が作られている。

「科学も田んぼの収益も、何もかもが経済原理の中に組み込まれて、弱いものは切り捨てられている。みんな一つの方向しか見ていないけれど、鉱石ラジオはもっと大事なもっと大事なものがあるかもしれないもう一つの視野、違う世界の象徴なのです。」

小林さんの表現は、そうした異なる空間に見るものを誘う。その表現を側面から支える膨大な蔵書の中には、鉱石ラジオが人々の生活の中に生きていた時代の科学雑誌や書物が、ずらりと並んでいた。

「人間と天然を結びつける本質的なものを興味津々で見直していくって、大切だと思います。自然と神秘、魔法の境がなかった時代の先人の経験なんかから、書物や話を通して学べることはたくさんあると思う。」

*1997年のメディア掲載記事から抜粋編集、画像は新たに付加しています。

小林健二自作の鉱石ラジオ

*以下に、小林健二が製作している不思議な作品たちを何点か紹介します。


「秘蜜商会」HIDDEN HONEY COMPANY
木、硝子、電気など 
230X190X220mm 1993
(1990年に制作された「秘密事業部-Secret Division」という作品を1993年に改名して発表。通電すると、窓にうっすらと人影が動き始めることがある)

「磁束界の距離」DISTANCE OF MAGNETIC FLUX FIELD
混合技法 mixed media 140X110X185mm 1993
(173-181一連の作品は、本来複雑に配線され、また多種の実験ができる装置となっており、いくつかの換算表と書物は、その実験を解説するもの)

「大気の中の隠れた電源」ELECTRICAL POWER CONCEALED IN THE ATMOSPHERE
写真、鉛 photograph,lead 650X465X30mm 1999
大気の中の隠れた電源 静かな実験室。人間による発見。 ここへはもう再びもどらないのだろうか? すばらしき変革。 本当はもうこれ以上ほしくないのです。めざましき発展。 只、静かな思いの世界にいたいのです。 1990 データ;6月1989 / 写真;1990

KENJI KOBAYASHI

 

微小世界への跳躍方

小林健二個展[EXPERIMENT1] Gallery Myu (健二自作の多重焦点 プレパラートを実際に顕微鏡で来場者がのぞくことができる。また壁面には、ピンクのバックライトに光るプレパラート作品が展示された。)

小林健二の自作多重焦点プレパラートと健二の顕微鏡。この場所で来場者はプレパラートをのぞくことができる。

小林健二自作の多重焦点プレパラート

ー顕微鏡の焦点深度って、ものすごく浅くてそこが顕微鏡の扱いにくさだったりするわけですが、小林さんの発表された「多重焦点プレパラート」作品は、逆に焦点深度の浅さをうまく利用していて、大変興味深く拝見いたしました。

「ああ、それはうれしいね。」

ーそもそもプレパラートでこのような作品を制作してみようと思われたきっかけは、なんだったのでしょうか?

「きっかけは一つだけじゃないんだ。小学校の時にプレパラートの下にゴミが付いててさ、気づかす見てたら、そこに焦点があっちゃって。間違えたものを見ててね。それが面白かったんだ。・・ってまた、子供の頃から透明なものを見るのが好きで、ゼリーとかビニールとか半透明のものとかもね。次々と中に入り込んでいくんだよね。ボヤけると次のものが見え、さらに次のものが見え・・・ってなる。」

ーゼリーの中に潜っていくような感覚がある、と。

「そう。そういう楽しみや経験の積み重ねが、後に『多重焦点プレパラート』につながったのかな。」

ープレパラートを本格的に作っていかれたのは、いつぐらいなんですか?

「10代の後半くらいから。その時、染色したり、スクリーントーンを貼り付けたりして遊んでた時期があって。永久プレパラート*を作る技術もあったから、いろんな植物の断片を切り繋いでみたりしていたんだ。その時に、あるものをカバーグラスでおさえて、ステージを上げたり下げたりして見ると、焦点深度によって違うものが見えてくる。これは楽しいよね(笑)。」

ー顕微鏡だからできた『遊び』ですね。

「これのいいところは、二つの切片を比較するときに、本来であればわざわざプレパラートを変えなければならないところを、上げ下げで同時に見られるでしょ。

あとね、『ポケットに入る作品』を作りたかったってのもあるんだ。一回の展覧会に必要な作品が、プレパラートなら30点作ってもポケットに入ってしまう。それまでは何メートルもある作品を作っていたけど、逆に小さなものも作りたかったんだね。」

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。鉱物結晶の切片、顕微鏡写真も健二による。

ー実際に小林さんの作品を見てみると、植物などの細胞の美しさに驚かされます。本に載っている写真を見るのとは違い、直接目を刺激する光は、こんなにも美しく強烈な印象を与えるものなんですね。自分の目で観察して見る重要さについて、どうお考えですか?

「まさにそのことで、自分がここにいて何か切片があって、その切片までの距離は変わらないのに、顕微鏡を通すことで急に見え方が変わってくる。ある種の翻訳機というか。」

小林健二の自作多重焦点 プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

ー同じものなのに別のもののように感じられうわけですね。

「例えば、いつも食べているタマネギを顕微鏡で見ることで、普段見えているだけじゃない、もう一つの意識・・・チャンネルが増えるっていう。それは無意味なことじゃないと思うよね。今、いろんなものが解明され、それが常識化されている部分って多いでしょ。ウイルスや血液の構造とかね。少なくともぼくらは教科書で見て、『あっ、こういうものなんだ』って思うわけだよね。」

ー実際、自分の目で見た経験をどれくらい持っているかって言われたら、ほとんどの人が持っていないですね。

「そうなんだ。だからこそ、こういうことが顕微鏡を除き始めるきっかけになって、一つでも実体験を増やしていけることにつながればいいよね。」

ー顕微鏡の発明によってミクロへの扉が開かれたわけですが、初めてミクロ世界と出会った昔の人々は、どんな気持ちで顕微鏡を覗いていたと思われますか?

「顕微鏡で何を見るのか、これは人間の生命を見ようとした一つの原形だと思うんだ。だから顕微鏡で探していたのは、人間の心の在処みたいなものだと思う。命を見れないなんて、誰でも知っているよ。だけど見たいっていう願望はある。だからこそ自分の血液、細胞を見たり、動物を解剖して見たり、それで見えるものは、日常の知覚を超えているんだよね。その先に欲するのは『命ってなぜ生きているんだろう』ということ。」

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も顕微鏡写真も健二による。

ー生命の神秘に近づきたい。その気持ちで覗いていた。

「植物であれ動物であれ、生命に対する意識っていうのは、昔は宗教の領域だった。それが顕微鏡によって、科学や日常の中に少しずつレールが敷かれて行った。顕微鏡っていうのはかつては生命との交通を、人間が試みようとしたものなんだね。逆に考えると、『顕微鏡を作りえた心』は、執念というか、この『見えないはずの世界を見ようとする機器』を発明してから、今日の顕微鏡に辿り着くまで、たくさんの人の知恵が働いているはず。そこまでして人間は顕微鏡を作って覗こうとしてきた。顕微鏡ができる前は、風邪を引いた、それだけで人が死ぬなんてことがいっぱいあったから、一人での多くの命を救いたいと思ったり、一つでも神秘的な生命原理に近づこうとした人たちが、半ば命がけでのぞいていたと思う。しかも、以前は日中でしか研究できない、晴れたからでき曇ったからできないってこともあった。その日の状態に影響される。ハイリスクは当たり前の中で、限られた時間、限られた条件の中で、やってきた人たちがいっぱいいたわけじゃん。ぼくは顕微鏡が便利で安くなれば、誰でも見られるというものじゃないと思う。見ようとする意志がどのくらいあるかっていうことによると思う。」

ー昔の人は、一瞬一瞬にものすごい執念をかけていたんですね。

「昔の人というということで言えば、顕微鏡を覗いてきた人の中には、当然、歴史に名を残すことなく終わった人も沢山いることを、忘れてはならないと思う。名前の残っていない無数の人々の努力があり、そういう積み重ねは決して無駄ではなく、その積み重ねにより進歩がある。この世は、無名に終わった人々の努力の結晶で成り立っているんだ。」

ー小林さんの言葉にある、『無名的結晶性』ですね。

「みんな、今の世の中は有名にならなければならない、立派にならなければならないっていうんもを刷り込まれている。若い人たちが『どうやったら成功できますか』とか『どやったらメジャーになれますか』って。その気持ちっていうのは、自分というものが生まれてきて、その価値を無駄にしたくないってことから出ているとは思うけど。」

ー無名で終わることを恐れている。

「でも逆にね、どんなにひっそり咲いているように見える花でさえ、咲いているっていう現象から見れば、全然堂々としているわけだよね。また、顕微鏡を覗けば、鉱物の結晶や細胞膜、ケイ藻が、誰かに見せるために美しいわけではなく、ただ存在自身がそこにあるっていうことが確認できる。それは、どんなに光の当たらない生き方をしていても、世の中には無駄なものはないんだ、とぼくたちに教えてくれているんじゃないかな。」

ーとても勇気付けられる事実ですね。

「ぼくは子供の頃から顕微鏡を覗いているけど、自分っていうものがどれくらい価値があるのか問う世界ではないんだって気がしてくるんだ。なかなか出会えない世界に触れているっていうだけで、今日一日が恵まれたような気になる。」

ーそのような満たされ方は、なかなか出来るものではないですよね。

「情報が先行しちゃうと・・情報だけが錯綜してしまうと、それを知らないと自分が取り残されている気になる。文明の恩恵にあずかれていないんじゃないか・・・そんな潜在的なコンプレックスを持ってしまっているのかな。」

ー多くの人が体験しているものは自分も体験しておかないといけないんじゃないかと、思うんですね。

「顕微鏡だけど、これは、中に集約していくものでしょ。何かを覗こうっていう意志がなければ、覗くことができない。漫然と見ることができない。深度も狭い、何をねらうか、はっきりしていなければならない。」

ー目的意識が相当はっきりしていないといけませんよね。

「タマネギの皮を見るにしたって、タマネギを買ってきて、皮をはがして、ガラス板にはって・・・と、明確な意思がないとそこまでやらない。そうすることで、何をしようとしているのか、一つ一つ認識できるわけだよね。だからと言って、タマネギの皮を見て何になるのって聞かれたって(笑)、何になるかはその人次第だと思う。

顕微鏡を通して、何かを探そうとしているのは、自分の内側にあるものになるよね。自分の目で直接見ることで、新しい自分を発見することもあるかもしれない。自分の生き方や考え方をフィードバックして考えるには、顕微鏡はいいアイテムだと思う。つまり、顕微鏡は自分を見るための、『鏡』、自分の内面を写す鏡なんじゃないかな。」

小林健二個展[EXPERIMENT1] Gallery Myu (健二自作の多重焦点 プレパラートを実際に顕微鏡で来場者がのぞくことができる。また壁面にはバックライトに光るプレパラート作品が展示された。正面に見えるのは偏光顕微鏡で、鉱物のプレパラートが映し出されている。)

*2004年のメディア掲載記事を編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

プレパラートと森の友人

複焦点プレパラート製作法について

KENJI KOBAYASHI

[XYSTUM-怪物の始まり]

小林健二個展[XUSTUM-怪物の始まり]パンフレット

怪物の始まり

ぼくは近視のせいか散歩の途中にふとビルの側帯に 隠れるようにしている巨きなものを見ることがある

よく目をこらしてみれば それらはたいてい大きな木や小さな森 あるいはビル自身の落している影であったりするのだけど・・・

やはり一瞬何かを見たような感覚は 忘れられないでいることが多い

まだ目が良かった幼い頃にも 曇りガラスに映る雲からの陰影や コップの中の水のひかり あるいはマッチ箱の小さな暗がりに何かを見たような そんな記憶を呼び起こさせる

とりわけ疲労した日の気怠るさの中で 沸き立つお湯の音などに遠く聖堂での大合唱や知らないはずの村祭のおはやしを聞いたり 大きくゆったりした風が電線をひくくハミングのように鳴らし ちょっとぞっとして でもワクワクするような夜に まるでそれらを背景曲のようにして 子供たちの夢から夢へと移り住まう不思議な怪物たちのことを想うのだ

怪物とはいっても それらは少しも恐くはなくて むしろやさしい影や霧のようにつつましく 少し涙を流していることもある気さえする

そしてぼくは思わず「いつもありがとう」と小さくこころの中でつぶやいてしまうのだ

小林健二

(*パンフレットに書かれた小林健二の文より)

小林健二個展[XUSTUM-怪物の始まり]に開催されたトーク風景

「一応、昨日今日始めたわけじゃないんで、30年以上この仕事をしていて、こういう樹脂を使って絵を描く場合、剥がれちゃまずい・・どういうものがいいのかって考える。

この半透明な部分は、メルターやホットガンとかのタマ、トランソイソプレンっていうんだけど、熱を加えるとギューンと溶けて、その原料を使っている。」

 

 

「モレット」という絵の具を練るのに使う道具の説明をする小林健二

絵画技法などに精通する小林健二。絵の具を練るためのモレットや練り板(大理石)、顔料やメデイウム、筆、パレットなど。手前には湯煎器(自作キャンバスを作るときに使用するニカワを湯煎したりする道具)、金箔など貼るための道具も見える。

今回は支持体として自作キャンバスが多く使われている。木枠にキャンバスを貼るときに使うカナヅチ(先が磁石になっていてキャンバスを固定する釘が先端につき、そのまま打ち込める)

まさに怪物のような電動工具。形が好きだと説明する小林健二。

「Zoe-ゾゥエィ-」
自作キャンバスに油彩、紙、木、他
oil, paper on canvas, wood, others 1345X1942mm 2006
Zoe 命という死への運命(さだめ)を背負っている 傷ついた永遠 
Zoe 数えきれないほど自から命を生んで また見送ってきた
Zoe その都度悲しみが生まれ この繰り返しの意味をいつも想い続けてきた 
Zoe 誰かを呼ぼうとした そして何かを話してみたいと思ったりもした 
Zoe 繰り返す果てしない世界に いつの間にか夢のくらしとの間(あわい)が消えてしまっている 
Zoe 今どこかにいて 自分を見つけようとするこころと出合える期待が生まれている 
Zoe 誰かの呼ぶ声が聞こえる そしてそれは何かを話そうとしている
Zoe それはかつてむかしに お前から生まれていた想いのひとつ 
Zoe いつの間にか世界という一つの風景の中で 錆び付いたように見送られて

「Ymil-イュミル- 」
自作キャンバスに油彩、鉛、木、他
oil. lead, on canvas, wood, others 1335X1300mm 2006
とても寒いところ 氷点下に冷却した地物に 霧のような水蒸気が昇華して 現れたと言われる霜の巨人イュミル 大気と同じくらい巨大でいながら まさに息を吹きかけるだけで 溶けてしまいそうな やさしい心の怪物 イュミルの肉は大地へと 血は川と海 頭蓋は蒼穹になっていったが イュミル自身 今どこにいるのか わからない でも その奈落へと続く入口は 風の凪いだ空のように 穏やかだった イュミルは この世を見守り続けている

「Hylco-ヒルコ- 」
自作キャンバスに油彩、樹脂蝋、木、他
oil, resin wax on canvas, wood, others 1335X1300mm 2006
ヒルコよ 悲しき怪物 神と呼ばれし美(う)まし二柱(ふたはしら)より生まれしも 醜(に)し嵶(たおや)しそなたゆえ 葦(あし)の舟で流されて その世より葬られしを 
ヒルコよ 今 おまえは 安らぎの場所にいて 巨大な風や青空とこころを同じにしている 
ヒルコよ 思い出すらなき命よ 知らぬ世界の御使(みつかい)の透明なラッパが顕われて そよ風のように奏でかける ”Vere tu es Deus absiodius!”  汝こそ まさに隠れたる神なり ゆるやかな静けさの中で

「Emeth-エメット-」
自作キャンバスに油彩、樹脂蝋、金属、木、他
oil, resine wax, metal on canvas, wood, others 1335X1300mm 2006
真実amtという名の脆弱な怪物 哀れにも人の都合のままに 数々の呪文によって この世に姿を現わすこととなった いつでさえその頭文字aを消されると 即座に死mtと変わると言う 気紛れな人の勝手とうらはらに この部屋ではいつのまにやらtの神の印が溶けはじめ 透質の結晶の堆い化合物をつくりはじめている 残ったamは 霊のこととなり すでに誰にも殺せない本当の怪物となってゆくのだ 夜はひっそりと静まりかえり 次ぎの出来事を待っている

KENJI KOBAYASHI

 

 

目に見えない世界

目に見えない世界

鉱石ラジオはぼくにとって、目に見えない世界からの通信を人間の五感に伝えるためにある一種の翻訳機といえるかもしれません。鉱石ラジオを形づくる木や金属や鉱物などの物質的手続きによって不可視な意思と疎通をこころみるというわけです。

かつて人間は目に見え、手に触れることができるものを物質と名付け、その物質のないところは単なるからっぽの空間だと考えていました。だから風などのふるまいは人々を不思議がらせました。見ることのできない何かが確かにあって木立を揺らし、そして森をざわめかせる。人はそこに何かのこころを感じたのです。あるいは風を作り出せる意志の存在を感じたのかもしれません。たとえば息を吹くことで炭火を赤くし、灰をとばすことができるようにです。

日本語でも息は生きるに通じるように魂や霊とつながるものとして考えられ、ギリシア語でも息と霊はともにspiritusという同じ言葉で表現されています。

その目に見えない現象は、やがて「風の物質」のしわざとして発見されていきます。たくさんの天才や物好きがこの物質の一連のはたらきを大気層から発掘していき、風は「空気」という物質によって起きるまったく物質的な天然現象と説明されていくのです。

ぼくは今でもときどき本当に風にこころはないのだろうかと思うことがありますが、まして電波となればさらに不思議な出来事です。ぼくは本文中で電波は電気力線が電気的電磁力学的に空間に押し出されたものと説明しましたが、本当はよく分かっていません。それはきっとぼくだけではなく、電子工学が専門の人でさえ、そのふるまいや現象を実験によって確かめたり、理論的に説明することができたとしても、それがそのまま電波の実態をつかんだということになりにくいからなのです。

「音は空気を媒体として伝わるように、電磁波はエーテルを媒質として伝播する」と言われていたのは、それほど遠い昔ではありません。エーテルという言葉は「大空」という意味から出てきたものであり、また目に見えない精霊たちの住む場所のことを指します。

アインシュタインの一般相対論によってエーテル(光素)の存在を認めなくても電磁波である電波のふるまいを説明できるとしたことと、マイタルソンとモーリーの実験によってエーテルの存在が実証できなかったことによって今では否定されているのですが、米来において、あるいはぼくらの知らない天体で、エーテルやそれに準ずる何かの媒体や媒質が宇宙の本質として発見されるかもしれません。

夜になると電離層のおかげで、短波だけでなく中波でも、感度のよくない鉱石ラジオで驚くほど受信感度が上がることがあります。そしてルーズカップラーなどを使用した長波にも対応できそうな鉱石ラジオの実験をしていると、ときおり奇妙な雑音を聞くことがあります。まさかロラン(電波航法による遠距離固定局)を受信したとも思えませんが、 トラック無線や空電でないのは確かなようです。おそらく鉱石ラジオの分離特性のなせるわざで、局間ノイズやハムが重なりうねって聞こえているのでしょう。ただごくまれにそんなノイズを聞いていると、全然思いもしなかった人のことを思い出すことがあります。なぜならあまりにその音がその人の声に似ていたりするからなのです。ぼくは半分ムキになってノイズの中から言葉を聞こうとしていると、いろいろと忘れていた思い出がよみがえってきて、確かに何かの通信を受け取ったような、そんな気持ちになるのです。

小林健二

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より

[前回ご紹介した記事『不思議を感じるこころ』の後編にあたります]

検波器の歴史

1、火花検波器・生理検波器

ヘルツが実験に使用していた電波の信号を検出する装置が、いわゆる検波器の初期のものです。これは火花放電によって発生した電波を共振によって感知するもので、火花検波器と呼ばれたりもしますが、通常は共振器resonatorと言われています。

ヘルツの共振器
この輸はひとつのインダクタンスとみなすことができ、それに共振誘導した電波を高周波電流の放電として検出する。

火花検波器
これらの検波器は、火花を発するものの近くにおいては(実験室内など)電波の到来を感知しても、距離が離れ始めると急にその感度は低下します。

ヘルツが発見した電波を通信に使うことはできないか。彼を含む世界中の科学者たちがこう考えましたが、火花放電による電波と共振器では、通達距離をのばせないことは実験上よくわかっていました。だからといって、よく言われるように彼が通信の実用技術に対して消極的だったというようなことはなく、特に改良の必要のある検波器については、できる限りの実験をしたようです。

そしてかつてガルヴァーニが用いたのと同じ、カエルの脚の筋肉を用いた生理検波器なども考えだしています。

生理検波器
生理検波器は見るからに安定性が忠く、ヘルツも感度がよくまた安定した検波器が現れるまでは無線通信の実現は難しいと考えたのも仕方のないことでしょう。

2、コヒーラ検波器

ヘルツが亡くなる数年前、フランスでブランリーEdouard BRANLY(1844-1940)が金属の粉末を使った検波器を発明します。それまでにも、金属の粉末をガラス製の筒などに封じ込めたもので、そばで放電が起きるとその内部の電気抵抗が変化することは、 イギリスのヒューズDavid Edward HUGHES(1831-1900)によって確認されていました。

ブランリーは、ガラス管にニッケル粉末を入れて封じ、直接これに電流を流しても金属粉体は抵抗値が高いのであまり電流は流れないが、近くで電気花火を発生させると電気抵抗が減り、電流が流れやすくなる現象を発見したのです。

ブランリーのラジオコンダクター(1890年 フランス)

彼は、この抵抗値の高い金属粉体の接触面が、電磁波の影響を受けて変化し抵抗値を下げたためだと考えました。彼はこの検波器をラジオコンダクターradio conductorと名付け、それが今日のラジオの語源になったと考えられています。ちなみにラジオは輻射radiatonからの言葉です。

この実験のことを知ったイギリスのロッジは早速これを改良し、遠い距離からやってくる弱い電磁波を検知できるような敏感なものにして、 1894年、ヘルツの実験回路の検波器として組み込み、成功しました。

ロッジのコヒーラ (1894年イギリス)

彼はこれを金属粉体の個々が高周波電流によって密着cohere も し く は結合するこ とから起こるとして、その検波器をコヒーラcohereと名付けます。

そして、このコヒーラ検波器によってそれまで不可能とされていた無線通信は可能ではないか、という講演をします。偶然にもその講演は、このすばらしい感度の検波器の出現を待ち望んでいたはずのヘルツの追悼講演として行われました。歴史はまるでドラマのように受け継がれてきたのです。しかしもともと学者であったロッジにはそれ以上事業として進めることができないでいるうちに、ロシアにはポポフが、イタリアにはマルコーニが出現します。

3 、デコヒーラ検波器(decohere再びコヒーラな状態に戻す)

ロッジの報告を日にしたとき、ポポフAleksandr Stepanovich POPOV(1859-1905)はロシアで水雷学校の教員をしていました。彼はロッジの装置にアンテナを付け、さらに受信回路に改良を加えました。コヒーラ検波器は感度を高めて電波の到来を知らせるうえでは問題のないものでしたが、一度導通(電気を通す)してしまうと導通しっばなしになってしまい、その後の通信を受け取りません。

そこでポポフは、リレー回路(電磁石のはたらきなどで作用するもの)などによって、一度密着し導通状態になったコヒーラを物理的に叩くことで粉体をもとのバラバラの状態に戻し、再び受信可能にするよう工夫したのです。

ポポフの検波器(1895年 ロシア)

ポポフの無線電信は事業化する可能性の高いものでしたが、彼はアメリカやイギリスの企業からの特許権譲渡や提供申込みを断り、ロシア国内で実現しようとしました。しかし、当時のロシア政府はポポフの発明に対して理解を示さず結局宙に浮いてしまい、無線通信の発達は他国に譲ることとなるのです。そのような理由で、世界の年表にはイタリアのマルコーニGuglielmo MARCONI(1874-1937)が、“無線通信の父”という輝かしい栄誉で語られていても、ポポフはロシアの教科書にだけその功績を称えられています。

ポポフやマルコーニのコヒーラは基本的に新しい発見ではありませんが、マルコーニはガラス管の中の金属粉体の安定性をはかるために中の空気を抜き取ったり、銀製の電極の距離を近づけ、さらにテーパーを付けて作動を確かにする工夫をしました。

マルコーニのコヒーラ(1895年 イタリア)

そして本来科学者というより企業家であったマルコーニは、やがでその資本力によって他の特許や発明を買収し無線電信の世界を独占しようとしますが、その後登場する無線電話についてはその重要性を見誤って出遅れることになります。

4、その他の検波器

いったん密着したり、抵抗値の下がった検波管を叩くことによって元に戻す検波器は、大がかりで部品も多く、また機械的な作動のためときどき故障が起きたりしました。そのため、もっと簡単に復帰できるものとして、いくつかのタイプが考え出されました。

・水銀検波器一形はいろいろありますが、基本的には両極の間に水銀が入れてあり、水銀のまわりを油膜によって絶縁してあるものです。この油膜は非常に薄く調製されていて、電波が到来して高周波電流が発生しているときには油膜が破れて金属どうしが導通しても、電波が止まると自動的に油膜が広がって元の絶縁層になるというものです。この検波器は火花式と同じく高い電圧で受信しないと誤動作が多いので、あまり感度はよくありませんでした。

水銀検波器 ロッジ・ミアヘッド型

水銀検波器 ウォルター型

水銀検波器 カステル式オートコヒーラ

国産の水銀検波器(1904年に浅野応輛氏によって発明されたもの)

・鉄粉検波器一この検波器も自動復帰型の検波器ということになっていますが、機械的震動に弱く、感度もいまひとつだったようです。1907年に発表されました。

鉄粉検波器
1907年に佐伯美津留氏によって発明されたものでコヒーラした後も電波が止むと自動的にデコヒーラすると言われています。

・磁気検波器一ぜんまい仕掛けで動く2つのエボナイト製の滑車が、継ぎ目なく作られた柔らかい鋼のより線を一定の速度で動かしています。この線は、ガラス管強力な磁石を通してアンテナ・アース間に接続されているコイルがあって、さらにその外側に受話器のコイルがあり、その外に強力な磁石がある、 といった構造をしています。この一定の速度で移動するしなやかな鋼線は、常に磁石によって磁化されていて、アンテナ・アース間のコイルに電波の到来とともに電流が流れ、それによって発生する磁界が、線をその時だけ消磁するようになっており、受話器用のコイルがこの磁性の変化を電流に変えることで、受話器から音として検出するというものです。

また、この検出部に小さなインクのついた針と紙のテープを使い、モールス信号などを記録紙に残すことができるものも作られました。これらはマルコーニによって作られ、新しい発明というわけではありませんしまた人仕掛けでしたが、実用的で安定した作動をもっていたので、彼が電信を事業として起こすうえでとでも重要な検波器となりました。

磁気検波器

電解検波器一アメリカのフェッセンデンRunald FESSENDEN(1866-1932)によって1903年に考案された検波器で、無線電話に使用できる最初の実用検波器です。電解液のなかに金属を入れ、その単偏導性を利用したものです。感度もよかったのですが、当時船舶に使用される通信機にとって、この電解検波器は液体を使う構造のため揺れる船上で使用する場合には不都合も多かったようで、世界に普及するよりも早く、その後の鉱石検波器に置き換わってゆきました。

小林健二

電解検波器
フェッセンデン式(1903年)

電解検波器
これはいろいろな型のある電解検波器の一種で電解液がこばれにくいように設計されたものです。

不思議を感じるこころ

 

*「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より編集抜粋しています。この本では、鉱石ラジオの原理と工作編、そして『通信するこころ』という項目に主に分かれて書かれています。その中から鉱石検波器について触れている部分を抜粋し、[ ]の中はこちらで追記しています。画像は古い文献を元に筆者である小林健二が描いています。

*『目に見えない世界の不思議』は小林健二が変わらず今に至り持ち続けているこころです。作品のタイトルから今回の記事に通じると感じたものを、何点かご紹介します。

[風と霊ーWIND AND SPIRIT]
648X925X50mm 1989
oil, soft vinyl on wood

[アストラルとエーテルのヒソヒソ話ーWHISPERING OF ASTORAL AND ETHER]
2200X3000X250mm 1986
wood, cloth, synthetic resin, paper, oil

[IN TUNE WITH THE PAST]
電波石、地球溶液、結晶受話器など
1997中央の透質結晶に針を当てるとイヤフォンから過去の放送が聞こえる受信機で地球上における1920年代以降から昨日くらいのものとなる。

KENJI KOBAYASHI

不思議を感じるこころ

不思議を感じるこころ

1873年、ブラウンが鉱石に単方偏導性unidirectional conductivityを発見して、これがラジオを生み出すきっかけのひとつとなりました。同じ年、電話の発明者となるベルの助手スミスが、セレニウムを電話用の電気抵抗として実験している最中、たまたま窓からはいる太陽光線によって抵抗値が変化することに気がつきます。これはやがてテレビジョンの発明へとつながる光導電セルの最初の発見となりますが、それらはともに時期だけでなく偶然によって発見されたところにも不思議な共通性を感じさせます。

これらはやがで現代の通信事業に対し大きな役割を果たすわけですが、ガルヴァーニやエルステッドそしてヘルツたちの発見がそうだったように、偉大な発見や発明が偶然の出来事をきっかけとして生まれてきたこともまた、 とても興味深い事実ではないでしょうか。

電気や電子、電磁波を扱う世界は他のいかなる場合よりも理論的でまた実証的な側面を感じます。しかし実はこれらの世界ほど偶然によって人類と遅近してきた世界もないのです。そしてこれらの背景にはいつも不思議を感じる実験者たちのこころが存在していたことを忘れてはならないでしょう。ひとしきり姿を現し、その後再び大いなる間の中へ消えていきそうになるちょっとした偶然の出来事を注意深くすくい上げ、見つめ、そして磨き上げてゆく。彼らのその地道な日々の努力を支えていたのはきっと、ほんの一瞬別世界と出会ったという確信だったのでしょう。

子どもの頃、雨上がりの風景のなかに虹を見つけ、まるで異世界から出現したような大きなアーチは、その足下にある町からはどのように見えているのだろうと考えた人も少なくないはずです。

みなさんは最近虹を見たことがありますか? まさか酸性雨によって虹がドロップみたいに解けてしまったなんで誰もいいわけをしたりしないでしょう。

不思議な世界はきっとぼくらのすぐそばで「早く私に気がついて」そんなふうにあなたに話しかけているかもしれません。そしてその奇跡の国へのチケットは決して特権的な方法によって大手するものではなくて、あなたの心の中にいる少年少女たちが、が当たり前に持っている不思議を感じるこころによっていつでも旅立つことができるようにと用意されているのです。

 

小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」の巻末に添えられた小林健二のイラスト

 

鉱石検波器[の発明者について]

鉱石のもっている単偏導性unidirectionalという奇妙な性質を最初に発見したのは、[上記しましたが、]ドイツ人のブラウンKari Ferdinand BRAUN(1850-1918)です。 1873年のこと、彼は各種の導体や不良導体の電気抵抗を研究中に、偶然にも黄銅鉱や鉛鉱などのいくつかの金属鉱物の中に、陽極と陰極の当て方の違いで抵抗値が異なるものを発見します。

これはまだ世界に「無線」という言葉ができる前のことですから、翌1874年にブラウンがこのことを発表しても、誰も無線電話に利用することができませんでしたそれから23年後の1897年、ブランリー、ロッジ、マルコーニなどの無電用の検波器はすでに開発されていましたが、無電(無線通信)以上に期待される無線電話の検波器の合理的なものを、世の中は待望していました。

ブラウンはこの年、鉱石検波器理論を発表し、 1901年には鉱石検波器を発明します。そしてその後相次いでいろいろな種類の鉱石検波器が発明、発表されていきます。

[次回に、鉱石検波器以外の検波器を紹介予定です。]

他に受信電流によって生じる熱作用を応用した熱検波器や、長い波長で一時期使用されたチッカー検波器があります。これは、モーターによって高速回転させた板に、たくさんの火花共鳴器のようなギャップを取り付けて、受信電流と同調させることで信号をとり出すものです。

あるいは受信した高周波電流を、一種の電流計(アイントーベン電流計)を通し、その振れに光を当てて壁などに反射させ拡大して、それをフィルムに感光させて記録するという光印字検波器などもありますが、いずれも大がかりであったり、感度が不十分だったりしました。やがで最も信頼性が高い真空管式(2極管)のものが登場し、鉱石検波器にとってかわることになります。

一般的な鉱石検波器

国産の初期の固定式鉱石検波器①

国産の初期の固定式鉱石検波器②
①よりも安価に出来るが安定性に欠ける。

鉱石検波器 ペリコン検波器

鉱石検波器
方鉛鉱のキャットウイスカー型(探り式)

ブランリーによる最も初期の頃の鉱石検波器
おそらくこれは金属の接点による一種のコヒーラ検波器として製作され、実験中に無線電話用の検波器としても使用できることが発見されたのではないかと思います。そしてひいてはそれがキャットウィスカーの考え方を生んだのではないかとぼくは考えています。

[鉱石検波器の]複数の発明者

鉱石検波器はいったい誰によって発明されたのでしょう。

ぼくは本文でドイツのブラウンが1901年に発明したと書きました。しかし東京の大手町にある通信博物館に展示されている年表を見ると、鉱石検波器は1908年(明治41年)日本人鳥潟右一(18831923)の発明ということになっています。確かに昔の日本の文献でもそのように書いてあります。ところがアメリカ合衆国の文献によれば、鉱石検波器はピッカードGreenleaf Whittler PICKARD(1877-1956)が1902年(明治35年)10月16日に発明し、 1906年には製造販売をはじめ、 1908年1月21日に特許を取っています。

また合衆国陸軍大将のダンウッデH.H.C.DUNW00DY(生没年不詳)は通信省を退職後、カーボランダムによる鉱石検波器を1906年に発表しています。早い話が、各国に特許の及ぶ範囲で誰がいちばん早く特許を取得したのかということでしょう。

実験室内での発見が歴史的発見になるというよりは、鉱石検波器などの電子ディバイスは誰があるいはどの国が主権を握るかというようなビッグビジネスにつながるものでしたので、特許をめぐる争いもめまぐるしいものだったと思われます。

事実、ダンウッディはピッカードに1カ月遅れで特許を逃したため、2人は光と影の人生を歩んだようですし、日本で最初に鉱石検波器を研究し、その後鳥潟右一にバトンタッチしたと思われる鯨井光太郎(1884-1935)のこともあまり触れられることはないようです。

おそらくこの1900年前後に世界で同時多発的に鉱石検波器の発明は行われたのでしょう。科学者として原理や理論を発見しまとめ上げていくことより、誰が早く実用性の高いものを発明し事業者として成功するかに、時代は移っていったようでした。

 

小林健二

 

*「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より編集抜粋しています。この本では、鉱石ラジオの原理と工作編、そして『通信するこころ』という項目に主に分かれて書かれています。その中から鉱石検波器について触れている部分を抜粋し、[ ]の中はこちらで追記しています。画像は古い文献を元に筆者である小林健二が描いています。

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”不思議”にこだわる小林健二さん

静かな町並みを通って、彼のアトリエに一歩入ってビックリ。

ノミ、カンナ、ヤスリ、絵の具など、いろんな道具が所狭しと並んでいました。

作品を自分の手で生み出すことにこだわっているうちに、自然に集まったものだとか。

「人間と作られたものとの関係って、永遠に変わらないような気がする。千年以上前に作られたものでも、手で彫られた彫刻は、訴えてくるものがある(円空を小林は好きだと以前語っていたのを思い出す)」

「道具っていうのは、それが作られた国の文化を反映しているんだよね。もっと日本のことをよく知れば、インターナショナルになれるって気がする」

彼の今回の出品作品には「古事記」からテーマをとったものもあります。展覧会のタイトルである「黄泉への誓(うけ)い」と不思議な響きをもつ。

「黄泉への誓(うけ)い」会場写真

「ぼくは下町育ちだから、どちらかというと気が短い方かも・・それでも今の色々なことが進むスピードは異常な気がする。

喉がカラカラに乾いた時に飲む水のうまさを味わう暇さえないような・・・ほんとうに美味しい水を飲む時間を奪われているよう。それってある意味不幸だよね。」

それで時間のゆっくり流れていた昔を取り戻そう、って意味合いの「古事記」ですか?

「古代に帰りたいって意味ではないです。「黄泉の国」ってどうして黄色い泉って書くんだろう?とか、不思議なことを考えるのはとっても面白い。例えば「ヨモツカド」って作品では白い空を描いたんだ。空が白い曇りの日に、影が一つもできないことを発見して、そこで”存在する”っていうのはどういうことかな?って考えたりする。ぼくは”不思議”っていうことに興味があるんだよね。いろんな不思議に興味を持って、それをゆっくり考えることに。」

「ヨモツカド」1990
木に油彩、鉛
2230X2250X160mm

「ヨモツヘグイ」1990
木、合成樹脂、幽閉物、松ヤニ、鉛
112X177X90mm

「KRAKEN- 魚の日」1990 木に混合技法、鉛 1800X4050mm

「離宮珀水」1990
木、油彩、アクリル、合成樹脂、他
1120X1420X390mm

そういえば私たち、いろんなことに追われて”不思議”を考えることってなかなかしない。感覚を研ぎ澄ませて身の回りの不思議に敏感になれば、もっと豊かな時間を過ごしていけるかも知れません。

「アートって人同士理解したい、理解されたいって気持ちから起こったものじゃないかな?だから自分を見直すきっかけにもなってくれたりする。」

下町に生活する人々の元気で温かい雰囲気をそのまま呼吸して大人になったような小林健二さんだった。

*1990年のメディア掲載記事より編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

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現代によみがえる鉱石ラジオ

さぐり式鉱石ラジオをつくる(銀河通信社製鉱石ラジオキット『銀河1型』)

ではさぐり式とはいったいどんなタイプのものかというと、まさに鉱物結晶が目に見える形としてあって、そこに針状の接点をまさに感度の良いところをさぐりながらラジオを聴く、という式のものを言います。

今まで国産で作られたキットは、固定式鉱石検波器と言われる太さ1cm前後、長さ3-5cmくらいの筒状のものなどを使用したものもあったようです。

鉱石ラジオは、やはりこのさぐり式が鉱石ラジオたる醍醐味と言えるでしょう。

1、キットの内容は写真の通りで、サンドペーパーや小さなドライバーも入った完全キットとなっています。オマケにはゲルマニュームダイオオードが付いている説明書も入っているので、基本的にはこのままで組み上がるようになっています。しかしさらに小さめのドライバー(ブラスとマイナス)やハンダゴテ、しっかりとナットなどをしめるためのプライヤーなどがあると組み立てやすいでしょう。

2、作業はまずスパイダーコイルを巻くことから始まります。このスパイダー枠箱のキットの特性部品の一つで、まさに大正時代の製法によって黒色特殊絶縁紙を型抜後、一枚一枚高周波ニスで塗り固め田というもので、ファイバー製のものよりも手製の時代をしのばれるような感じを受けます。
手順や方法については、解説書に詳しく書いてあるので、ここではそこに書いていない部分に絞り、述べてみます。スパイダーコイルを巻くコツはとにかくゆっくりとあぜらず一巻き一巻き、きっちりとつめて巻いていく方が良いでしょう。かといって紙製の枠が壊れ流程力を入れてはいけません。回数を数えて巻くのは結構めんどうなものですが、このキットの場合、巻き切れればいいように設計されているので、お茶でも飲みながら楽しんで巻き上げていけます。方向は右回りでも左回りでもお好きな方をどうぞ。

3、中間のタップになるところは、赤と緑の線を10-15cmくらい絡めてから、また同じように同じ向きに巻いていきます。ゆっくりと同じくらいの速度と強さできっちりと写真のような感じで巻き上げましょう。この赤と緑のエナメル線も懐かしい感じがします。

4、コイルの巻き終わりは穴のある羽のところを1−2回ぐるっと線を回してから穴に通すとしっかりします。巻き始めの線、中間のタップの線、巻き終わりの線が、片方の面(同じ面)に出るようにしましょう。

5、ターミナルを付けます。これらはカラーベークのまさに鉱石ターミナルとかつて呼ばれていたものです。もうあまり見かけません。後ろから裏側で線を絡めるため、取り付けるときあまり固く締めないようにしましょう。(この画像は記事を複写しています)

6、バリコンを付けます。もしこのポリバリコンが金属製のバリコンだったら、まさに昔の鉱石ラジオのパーツが全て揃うところです。しかし今日では難しいでしょう。(銀河通信社では単連のエアーバリコンを使用したキットをいずれ発売予定とか)
ただポリバリといっても、すでに線もハンダ付けされているので工作は楽にできます。コツとしては線はいつも時計回りにターミナルに巻きつけること(締めるときに緩まない)と、線はピンと張らず少々たるむように配線することです。

7、バリコンにシャフトを付けます。この際、右にいっぱい回してしっかりネジ込みます。またネジロックや瞬間接着剤で固定した方がいいでしょう。ただ接着剤はくれぐれもはみ出さないようにしましょう。

8、ツマミを右にいっぱいに回した位置で、ツマミの後ろ側から小さなマイナスのドライバーでネジを締めて取り付けます。もっとしっかり取り付けたければさらに大きめのドライバーを用意して締めた方がいいでしょう。

9、鉱石検波器の鉱石の部分を取り付けます。裏側からナットを締めて付けます。まさにこのラジオの心臓部です。あまり鉱石の表面を素手で触るのはやめます。ここには方鉛鉱が使われていますが、方鉛鉱なら全て感度がいいという事はありません。このキットでは銀を多く含んだ特別に選んだ鉱物を使用しています。またその土台にも特殊な合金を使用して、一つ一つ手作業で仕上げています。

10、さぐり式の探る針はタングステンでできています。画像右上のように仮に取り付け、あとで調整します。

11、10の部分を裏から見たところです。S字の銅線ですでに配線されていたり、ベークのスペーサーでコイルを付ける台としているのがわかります。

12、サンドペーパーでそれぞれの線の端と、赤い線の中間部分の配線をどうするのかよく理解した上で、エナメル線のエナメルを剥がします。色のついたエナメルなので銅の色が出てきたらOKと分かりやすくなっています。

13、スパイダーコイルを取り付けようとしています。大きなワッシャーで挟み、ナットをプライヤーなどでしっかり締め、取り付けてください。

14、配線が終わった状態を裏側から見たところです。線の末はタマゴラグの穴に絡めてあるだけですが、この場合はハンダ付けが必要です。ハンダ付けしない場合は、ナットでしっかり他の線と一緒に強く締め付けてください。

15、タマゴラグの穴に線を絡め付けた後、ハンダ付けをした状態です。

 

16、鉱石ラジオ「銀河1型」完成です。

イヤフォンをつけ、アースとアンテナ(アンテナ1とアンテナ2)は感度の良い方を選んでください。鉱石の感度の良いところを探しながら、またバリコンで多少局の分離もできます。色々楽しんで作り、そしてまた本当の鉱物結晶から音が聴こえてくるような不思議な感覚を楽しんでください。(アンテナとアースについての記事を参考までに下記します)

アンテナとアース

これらは鉱石ラジオに使用される天然鉱物です。左から黄鉄鋼、方鉛鉱、黄銅鉱、紅亜鉛鉱。
ぼくは、自著の「ぼくらの鉱石ラジオ」の中で紅亜鉛鉱が一番感度が良いと説明していますが、とてもバラツキがあって実は一概に言えません。全体的に方鉛鉱が無難だと思います。しかし、このキット中のような感度の良い石ばかりではないと思います。下にあるゲルマニュームダイオードで、昔風の感じのものを選んでいます。銀河通信社の「銀河1型」キットについているものとは異なりますが、鉱石と針の部分につければ、ゲルマラジオに早変わりです。

 

*2000年のメディア掲載記事から抜粋し編集しております。

「オーディオクラフトマガジン創刊号」

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鉱物の魅力

「鉱物の結晶は本来この世に全く同じものは二つとないわけですよね。そうした事実をぼくたちは思い起こしてみるといいんじゃないかな。

明礬で作る結晶の実験なんかでも、本を読んでいると枝のような結晶が付いてできたら取るようにと書いてある。それはとりもなおさず、決まった形に育成していくことがいいと言っているようなものだよね。でもそうじゃなくて、それぞれに美しいと感じられる形があるし、天然現象としてその結晶自身が持っている方向のようなものがありんじゃないかと思うんです。

同じ鉱物が二つとないという鉱物の世界のようにね。そしてそれは、まるで人間がそれぞれの個人の魅力を自由な形で表現できる世界というのが理想だと思うようにね。

同じ種類の鉱物を並べても同じようには見えない。しかも一つの鉱物の中に数種類の鉱物がお互いを排除しないで共存しているものもある。鉱物、いや天然かな、そこには無駄や差別という概念がなくて素晴らしい。人間の世界もこんな風に、お互いを認め合えていけたらいいよね。

黄鉄鋼に褐鉄鋼がくっついていたり、透石膏に褐鉄鋼がくっついて、その後に中が溶けて空洞ができ外形だけが残っているものとかも洗う。珍しい標本だけど、これなんかもある意味で遺影の結晶とも言えるよね。

中心が透石膏でそのまわりに褐鉄鋼が仮晶した後、内部の透石膏が溶去して褐鉄鋼の部分だけが残ったもの。
Santa Eulalia,Mexico

示準化石や示相化石のように、化石だと全てではなくともその年代を同定できる場合があるけど、鉱物結晶はできるものに何千年かかったのか何万年なのかなかなか分かりづらい。それらは大抵光も当たらない場所で、ただただ変化し成長し続けていたわけですよね。

ここに海緑石化した貝だけど、どういう条件が揃えば貝のところだけが変化したり置換したりするのか、とても不思議なことだと思う。

腹足網の化石。外殻が海緑石(Glauconite)に置換されている。(記事を複写)
[Turritella terebralis]
Nureci,near Laconic,Central Sardinia,Italy

そんな神秘的なことがぼくたちの前にあらわれてくる。それを思うと、人間の世界から少し離れて自由な気持ちになれるわけです。

子供の頃から人と同じように物事ができなくて寂しくなったり孤独を感じたりしたことがあったけど、いまはそんな自分を変だと感じないでスムシ、心が落ち着いてきたと思う。

日常で大抵の人が感じる軋轢(あつれき )って、基本的には人間関係ってことが多いんないかしら。そんな時、鉱物の世界は一つの架け橋になってくれるような気がしますね。」

柱状の緑泥石を核とした、ザラメ砂糖のような水晶の結晶
Artigas, Uruguay

ー見た目に美しい鉱物ですが、精神性にまで影響があったりするんですね。ところで、人工の鉱物や宝石についてはどう思われますか?

「鉱物と宝石を趣味にする人ではタイプが違う場合があるように感じます。宝石で偽物を摑まされたとか嘆く人がいるけれど、その人がそれがガラス玉出会っても分からないかもしれないでしょ。それなら、あるがままに存在する天然のコランダムのルビーやサファイヤをあえてカットして磨くより、ガラス玉を付けても見た目には問題ないいじゃない(笑)。

硬度に違いがあるくらいで、もし赤くて透き通っているものとしてだけそれを見るのであれば、天然の鉱物である必要はないかも知れないね。

聞いた話ですが、最近の技術はすごくて、天然のエメラルドにはそれぞれに包含物やスがあるけど、人工のものにはそれがなくて均一だから見分けられていたんだそうです。それが今や、いかにして人工のエメラルドに天然に似た包含物やスを入れるかということになってきて、なかなか鑑定する人も大変だと思うけど、それはそれで天然の鉱物が少しでも助かるならいいなと思うんですけど(笑)。」

ー小林さんは色々な表現活動をされていますが、鉱物をテーマにしたものは作られているのですか?

「ぼくは怪物とか模型飛行機や星を見るのが好きだったし、絵の題材として怪物や透明なものや光ったりするものはよく出てきたし、高校の頃には水晶とか描いていたこともあった。

それは作品として仕上げ用というよりも、ただ好きなものを描いていた感じですね。みんなもそうかも知れないけど、今自分のやっている仕事と、そうなりたいと思っていたことが必ずしも一緒でない時期ってあるよね。でも表現方法は色々だけど、子供の頃から好きだったものってそんなに変われるものじゃないと思うんです。」

ー鉱物に対する思いがだんだんと作品と融合してきたわけですね。

「ぼくはこれまで生きた年と同じくらいこれからも生きているとも思えない。そうすると、だんだんと自分の素性に近いところで生きるようになってきたと思うんです。今までは作品を作ることと鉱物を見るということは意識として別のものだったけど、だんだんと近づいてきた部分があるような気がする。だからい色の変わる水晶の作品とか、鉱石ラジオとか人工結晶を作るようになったんです。

日常の中で記憶って時とともに薄らいでいくようなことがあっても、変わらないで蘇ってくるんです。それで、やっと自分のやりたいことが少しみつかてきたというか、昔のぼくと同じように不思議や鉱物が好きで、鉱石ラジオや人工結晶みたいなものまで興味がある人のために、何かできないかというのが今の興味なんです。

「ついにアブナイ博士の仲間入りをしたな!」とか言われたけどね(笑)

kingdom-kristal from Kenji Channel on Vimeo.

*2002年のメディア掲載記事より編集抜粋し、画像や動画は新たに付加しています。

KENJI KOBAYASHI

鉱物との出会い

アメティスト(紫水晶)表層の、まるでシュクル(アメ細工)のように小さな濃い紫やオレンジ色の結晶がついた標本。
Amatitlan,Guerrero,Mexico

ー小林さんの鉱物との出会いというのはいつ頃ですか?

「小学校の低学年の頃に、ちょっとした事件というかある出来事があって、そのことがショックとなってひどい対人恐怖症になってしまったんです。

その頃ぼくは恐竜などが好きで、友だちとよく上野の国立科学博物館に行って担ですよ。今はレイアウトがかなり変わってしまったけれど、その時に鉱物標本室というような展示室があって、随分と印象的なところでした。

傾斜になった古い木でできたガラスケースの中に、整然とたくさんの鉱物標本が並んでいて、子供の頃からクラゲや石英のような透明なものが好きだったので、水晶のような透き通るものにはとりわけ目が行ったし、また藍銅鉱や鶏冠石(けいかんせき)といった色のはっきりとしたものもたくさんあって、とても綺麗でしたね。そんな中で、何回か通ううちに、たまたま学芸員の人が鉱物を色々説明してくれるようになって、鉱物に対する興味が一段と湧いてきたし、だんだんと鉱物を介して人とコミュニカーションを取ることができるようになってきたんです。

実は先ほどの事件というのは、大人の男性から受けたもので、大人の男性に対して恐怖を感じたことに端を発していたんです。その学芸員の人と、ひいてはその鉱物と出会うことがなければ、一体今頃どうなっていたかと思うんです。

今は多少笑いながら話せますが、当時は命を奪われるほどの恐れを抱いたので、それが少しづつほぐされていったのが、本当にありがたいです。」

ドイツ・ボンの博物館は、昔(小林健二が小学ー中学生の時に通っていた頃)の上野にある国立科学博物館の鉱物標本展示室にどこか似ている、と話す。

ー35年以上前の話ですけど、鉱物との出会いは小林さんにとって貴重なものでしたね。ところでミネラル・ショーのようなものはなかったんですか?

「池袋や新宿で年に一回開催されていますね。当時は今のように鉱物をまとめて見る機会はほとんどありませんでした。神保町に高岡商店というのがあって、矢尻とか土偶と一緒に水晶のような鉱物標本がいくつか売られていたぐらいかな。

ぼくが成人した頃には、千駄木の凡地学研究社で鉱物を買うことができるようになりましたね。小さな木の階段をギシギシとスリッパに履き替えて上がっていってね。今となっては懐かしいね。」

ー海外ではバイヤーが集まるミネラル・ショーが行われたでしょうし、ショップもかなりあったんでしょうね。

「海外ではミネラル・ショーは以前から盛んで、特にツーソンやミュンヘン、デンバーなどはとりわけ有名ですね。今でもショップは数多くあります。日本では最初に「東京国際ミネラルフェア」がはじめられた時に、出店していた人たちもその後あんなに続くとは思わなかったんじゃないかな。でも当時に比べたら、鉱物標本を扱う店は増えたと思います。」

ー昔の標本屋さんはどんな感じでしたか?

「ぼくが子どもの頃ってほとんど日本で採れた鉱物ですよね。そうするとどうしても地味なんです(笑)。それに結晶性のものよりは石って感じのものが多かったですね。時々綺麗な鉱物があったけど、いいと思うものは当時のぼくが買えるような値段ではなかった気がする。

そういえばぼくが22-23歳の頃、凡地学研究社に半分に切断されたアンモナイトの一種が置いてあったんです。それは表面が真珠色で断面がよく磨かれていて、隔壁や外殻本体は黄鉄鋼化して金色で、さらにそれをうめる全手の連室はブラック・オパール化しているもので、もうそれは素晴らしかった。とりわけその中心から外側の方へ青色からピンク色へと変移していくところなんて、もうデキスギとしか言いようがなかった。」

ーそれ以降、同じようなものは見たことがないですか?

「ありませんね。その時は本当にこんなものが自然にできるのかと思ったくらいで、人間の技術や造形意識を超えた、天然の神秘な力を感じないわけにはいかなかった。今となって考えてみれば、天然を超える人間の美意識なんていうものを想像する方が、難しいと思うけど(笑)。

あとは無色の水晶に緑簾石(りょくれんせき)がまるで木の枝のように貫いて、その端が花のように咲いて見える大きな標本とか、細かい針状の水晶の群晶の中央に、真っ赤に透き通る菱マンガン鉱の結晶とか、言い出したらキリがないけど、色々な標本屋さんとかミネラル・ショーに行くと、博物館でも見られない標本を見ることができるのは素晴らしいことだと思うんです。」

 

「地球に咲くものたちー小林健二氏の鉱物標本室より」
岩手の石と賢治のミュージアムで開催された、小林健二の鉱物標本の展示風景

「地球に咲くものたちー小林健二氏の鉱物標本室より」

「流星飲料ーDrink Meteor」
石と賢治のミュージアムにある石灰採掘工場跡、そこに期間限定で不思議なお店が現れました。

「流星飲料ーDrink Meteor」
石と賢治のミュージアムにある石灰採掘工場跡。小林健二が作ったレシピによる ドリンクを、彼の土星作品に囲まれて楽しむお店です。とくに光る飲料水「流星飲料」を光るテーブルにて飲む瞬間は、時空を超えて流星が体内を通り過ぎ、気がつくと星々に囲まれているような錯覚を覚えた記憶があります。

小林健二個展「流星飲料」。期間限定で現れた不思議なお店、そこのレジの横には不思議な光源で光る鉱物の数々。

「流星飲料ーDrink Meteor」

石と賢治のミュージアム(石灰の採掘場に宮沢賢治が何度か訪れ、馴染みのある工場跡、そこに併設されて作られたミュージアムです)で開催された展覧会。その洞窟の奥にある小さな池に、小林健二は水晶作品を展示。
現在は地震の影響もあり、この洞窟には立ち入りが禁止されています。

*岩手の一関にある「石と賢治のミュージアム」では、鉱物展示用に設計された什器の中に、数多くの小林健二が選んだ鉱物が展示されています。

*2002年のメディア掲載記事より編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

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アーティストのアトリエと道具

小林健二に道具や材料、技法のことを語らせると、そのまま本が何冊かできてしまうほど。古道具屋や工具店をのぞくのが気分転換にもなるという。

”道具マニア”だが、ただ集めているのとは違い、実践が伴っている。使い込まれた彫刻刀、ノミ、かんな・・・懇意の職人さんから譲り受けたものもあれば、道具屋で発見した江戸のもの、自分で作ったものもある。「『藤白』と書いて”とうしろ”銘を持つ刃物もある。その洒落気が心憎い」と話す。

入り口から奥を臨む。この場所は小林健二が20代に文京区に構えた最初のアトリエとなります。

小林健二最初のアトリエ

旋盤などの機械や、金属加工用の様々な工具が置かれたアトリエにて。小林健二

金属をけずったり磨いたりするグラインダー類。「ぜひ、田端新町へ行って欲しい」と語る小林健二。明治通り沿いに、中古の電動工具を扱う店が並んでいて、いいものが格安で手に入る。新品1台の値段で写真のグラインダーが全部買えるくらいだ。「特にモーターを使った工具はいい。淘汰されている。モーターの周波数とベアリングがなじんできて、新品より音がうるさくない。」という。何台も揃えておくと、いちいち砥石を付け替えなくても済むので便利。

まるで作品のように美しい金工用のゲージ。やはり中古を購入。

絵の道具一式。絵の具を意味なく無駄にしたくないので、パレットはいつも綺麗にしておく主義。描くというより塗るに近い状態になると筆より指が活躍する。先端に曲玉のような石のついたスティックはバニッシャー(テーブルの上)。本来は金箔を磨くものでメノー棒と言われるが、小林健二は主として鉛の艶出しに使用。細いピンはブロックス社製アンバーニス(テーブルの上)。フランドル絵画の堅牢な絵肌を作ったと言われるもの。「真偽はわからないが夢があるから」と手に入れた。

小林健二の道具の引き出しの一部。かんなやノミ

小林健二の道具。彫刻刀の引き出し。

*1991年のメディア掲載記事より抜粋編集し、アトリエ全体の画像以外は記事より複写しております。現在、小林健二のアトリエにある道具の数もかなり増え、美しく手いれされた古今東西の道具たちは、今でも大切に扱われています。

記述にある田端新町に関する記事も下記にリンクしておきます。

ぼくの遊び場

現時点ではかなりお店の数も減っているようですが、興味があれば自転車などでまわってみるのも面白いかもしれません。というのは明治通り沿いに点在しているため、歩くには少々道のりがあるようです。この取材当時は、中古の機械を扱うお店が並んであったそうです。

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