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アーティストインタビュー:小林健二さん

小林さんは絵画や立体造形を広く手がけている一方、科学、物理、電気、天文、鉱物学などの自然科学をアートと融合させたような、ちょっと懐かしくて、しかも不思議な仕掛けのなる作品を数多く発表しています。今日、訪ねたアトリエにも薬品や鉱物の標本のようなものがいっぱいあって、実験室のような雰囲気もします。おそらく、小さいころは科学少年であり、工作少年ではなかったと思うんですが、いかがですか?

アーティスト小林健二(文京区のアトリエにて)

「科学少年」や「工作少年」であったかはぼくにはわかりませんが、工作や科学は子供の頃から好きでしたね。今でもそうなのですが、ぼくの中では科学や図画工作、それから音楽と美術というように、どれも分野で分けられているものではないんです。もし、自分の中で多少区別があるとすれば、好きなことと苦手なこと、あるいは興味があるかないかということだろうと思うんです。むしろ美術ならそれ自体が、他の分野から全く独立して存在しているということは考えにくいですよね。

油彩画を描くにしても、木を彫刻するにしても、あるいは電気を使ったり、ぼくのようにある種の結晶を作ることにしても、いつだって何がしか他の専門分野の知識や技術と切り離せないことは多いと思います。光を使った作品を製作する上でも、電気的な構造の部分や工学的なところ、またはそれに伴う金属加工などの作業や、あるいは樹脂などの化学的変化についても、知らないでいるよりはある程度理解していた方が、よりイメージに近い状態に近づける可能性があるわけですからね。

この国がとりわけその傾向が強いのか、ぼくにはよくわかりませんが、ある意味で、いろいろなことをまずはカテゴライズしないことには気が済まないような国民性があるんじゃないかな。

ぼくは絵を描いていたりするけど、作曲をしたり文章を書くこともあります。そうしていると、『どうして美術だけではなくて、音楽や文筆活動やいろいろされるのですか』と聞かれることがあるんです。でも、伝えたいメッセージやそのイメージに何が一番適しているかで表現方法は変わってくるし、そのことに自由でいたいと思うんです。ですから、ぼくにとって技術的な表現の分野を分けることはあまり意味のあることではなくて、何をしたいかといったその内容や必然性の方が重要に思えるんです。」

小林健二作品「夏の魚」
油彩画(自作キャンバスに自作絵の具)

小林健二作品「LAMENT]
(木彫と鉛などの混合技法)

小林健二作品「MINERAL COMMUNICATION-鉱石からの通信」
(作品の内部に設置された小さな鉱物(ウラニナイト)から発する微量の放射能をガイガーカウンターが感知し、モールス信号とも取れる発信音が作品から聴こえてくる)

小林健二結晶作品
(自作の人工結晶)

小林健二結晶作品「CRYSTAL ELEMENTS」
(透明なケースに封じられた水晶液中の結晶が、季節を通して成長や溶解を繰り返す。画像は展示風景)

小林健二作品「IN TUNE WITH THE INFINITE-無限への同調」
(窓から見える土星が青く光りながら浮いていて静かに回っている作品。内部はおそらく電子部品に埋もれている)

小林健二動画作品「etaphi」

小林健二音楽作品「suite”Crystal”」
(ミニマルミュージック。個展会場などで流すことが多い。現在ではCD化しているが、当初は降るように音が脳裡に浮かび、急いでアトリエにあった録音機(テープレコーダー)に、これもアトリエにあったピアノで収録。)

小林健二著書「みづいろ」
(実話を元に綴られたもの。活版印刷で、装丁も小林がしている)

様々なことに興味があるというのは、小さいころの体験によるのではなかと思います。遊びとしてはどんなことをしていたのでしょう?

「みなさんと同じで、いろいろとしていたと思いますが・・・(笑)。ただ熱中していたことはいろいろあります。例えば恐竜や鉱物について調べたり、飛行機の模型やプラモデルを作ったり、プラネタリウムに行ったり・・・。自分の大事な思い出は、その大部分が子供の頃にあるように感じます。ですから、例えば文章を書いたりすると、『子供の頃は・・・』という書き出しになってしまうことが多いんです。それから、昔の友達にあったりすると、『ケンジ、お前は子供の頃と全然変わってないな』ってよく言われちゃう。これは進歩がないということでもあるんでしょうが、おそらく、ぼくの中ではまだその頃と変わらないものがずっとあって、ぼくには子供の時に感じたたくさんのことが今も大きく影響しているところがあるんでしょう。多分これからもそうなのかもしれません。そもそも人間なんてそう簡単に変われるものでもないだろうし、『三つ子の魂百まで』なんて言うでしょう。」

小・中学校での美術教育の体験について尋ねたいんですが、何か記憶にあることはないでしょうか?

「学校時代に図工・美術の時間ではとにかく、放っておいてくれたという感じでしたね。でもだからこそ自分のやりたいことがはっきりしていた場合、とても楽しかったし、やりたいことが見つかるまでは待っていてくれたように思います。そして少なくとも描き方を強制されるようなことはありませんでした。

『子供のころに何に影響されましたか?』とか『どんな画家が好きですか?』ということを時たまインタビューでも聞かれるんですが、ぼくが影響を受けた美術の作家というのは、あまりいませんでした。絵を描くこと自体は好きでしたが、画家になるんだって気持ちで描いていたわけではないように思います。その一方で自然科学には子供のことから興味がありました。もちろん子供にとって『自然科学』なんていう概念はありませんけど、これは一つの資質だと思うんです。とにかく、星や鉱物、要するに天文学や地学に関することや恐竜などの古生物に関することが好きでした。それで小学生の時には、上野の科学博物館に行ってそういうものを見るのが何よりも好きだったんです。」

小林健二のアトリエ
(色々な道具に混じって望遠鏡が写っている)

小林健二アトリエの一角
(机には顕微鏡や鉱物も見える)

また美術の話に戻してしまいますが、絵としてはどんなものを描いていたんでしょうか?

「実は今でもそうなんですが、とにかく怪獣とか恐竜の絵が好きでした。それで、図工の授業でどんな課題が出ても何かとこじつけて怪獣や恐竜を描いちゃってました。例えば、虫歯予防デーのポスターを描くなんていう課題は、ひょっとしたら今でもあるかもしれませんが、そんな時にも、ブロントサウルスが歯磨きをしている絵なんか描いたんです。でも、ブロントサウルスというのは手が首ほどには長くないので口まで届かない(笑)。それでうんと長い歯ブラシにしたりしました。これは結構先生にもウケましたけど(笑)。でも、それはもちろん例外で、いつも怪物ばかりしか描かないで、おそらく先生も困られていたと思います。」

小林健二作品「描かれた怪物」
(板に油彩、紙、木、他)

ごく普通に考えると、美術や音楽が好きなことと、自然科学に関心を持つことは、子供にとってはやはり意味が違うのではないかという気もします。電気や天文や昆虫に興味を持つことには、それらについて新しい知識を獲得していくという喜びがあり、それは絵を描いたり楽器を演奏する楽しみとは異質なのではないでしょうか?

「ぼくはそのように分析して考えたことはないですね。初めにも言ったように『自分にとって好きなことと苦手なこと』という基準が何よりも大きいんです。『好きなこと』とは自分にとって『楽しいこと』、あるいは、『感動できること』と言い換えてもいい。夜空を見て星が綺麗だなと思ったことや、冷たく光っている水晶の結晶に見とれてしまうような感覚が最初にある。電気というのはもちろん物理学の一つの分野ですけれど、ぼくにとっては、フィラメントが光って綺麗だというのは、星が輝いていることの美しさとどこか通じているわけだし、あまり違いはないんです。

ものが光る理屈にはいろいろあります。星やホタルも、LEDや月も雷もそれぞれ異なった方法で発光しています。でもぼくにとっては重要な問題じゃない。肝心なことは、それを見てどう思えるか、そこへすうっと気持ちが引き込まれていくかどうかということなんです。でもその後さらにその不思議な現象にまるで恋でもするように深く知りたく、また近づきたくて科学の世界に足を踏み入れたとしても不自然なkじょととはぼくには思えないけど・・・。

だって、考えてみれば、もともと子供にとっては、そういう分野わけはないわけですよ。だからこそ、そういうことを教える必要があるという立場も一方はあるでしょうけど。たとえがホタルが光るというのは、一見、物理的現象でしょうが、実はあれはルシフェリンとルシフェラーゼという物質によって発光しているわけで、有機化学の問題になってきます。これはLEDが通電により電子のぶつかり合いによって発光したり、太陽中の水素がヘリウムになるときに熱核融合反応により発光していることと、それぞれに違っている。だけど、そういうことはあくまでも理論であって後からくる。まずはそのことを知っていなければいけないということではないし、そういう知識がなくとも、子供たちは、ホタルが光ることを綺麗だと感じたり、不思議だと思ったりするわけでしょう。

これは、おそらく美術の場合でもまったく同じだろうと思うんです。例えば、名画というのは、あらかじめ認められた価値のあるものだから尊いのではなくて、子供の目から見ても、そこに面白さや美しさが感じられることに意味があるのだという気がします。いくら値段の高い絵だって、『これは価値があるから感動しろ』というのはおかしい。作品を受け取る子供達の中に興味や関心が培われていなければまったく意味がないだろうと思うんです。」

おっしゃることはよくわかります。ただ、教育の主要な目的として、文化遺産の世代間伝達ということはあると思うんです。ですから、まず知識を持津ことで、一層興味を喚起されたり、深い感動につながるということもあるように思うんですが・・・。

「それはあるでしょう。でも、ぼくは感動することの本来の意味についてお話ししているわけです。ホタルの発光がルシフェリンとかルシフェラーゼという物質の反応によって起こっているということは、さっきお話ししましたけれど、それで全てが説明されたことになるでしょうか。DNAの主要な物質であるディオキシリボ核酸は、アデニンやシトシンやグアニンやチミンといった物質によってヌクレオチドを形成していますけれど、どれが分かったからといって、生命現象が解き明かされたとは誰も思わないでしょう。同じように仮に人のゲノムが完璧に解読されたとしても、それによって人の心が理解できるというものじゃない。ですから、知識によってわかるといったところで、それはあくまでもごく狭いフィールドにすぎません。でも大人たちはそこでいかにも分かったような気にならなければいけないと思っているんじゃないでしょうか。」

小林さんの作品は子供達にも人気があるのではないかと思うんですが、展覧会などでの子供達の反応はどんな感じですか?

「ぼくの作品がどれくらい子供達に人気があるのかわかりませんけれど、興味を持ってくれる子供は結構いるという話は聞きます。自分が面白いと思ったものにじっと見入ってくれている子を見かけたことがあります。そういう様子を見ていると、子供の頃ぼくが博物館の陳列物に惹かれたのと同じように、自分の心の中の何かを探そうとしてくれているような気がしますね。」

小林健二展覧会「PROXIMA(ARTIUMにて)」の一室風景

今、話を伺っているこのアトリエには、鉱物の結晶や化石、星座板とか昆虫の標本やおもちゃのようなもの、それから薬品やいろいろな道具がたくさんありますよね。また書庫の方には、化学実験や自然科学に関する書物を始め、ありとあらゆる本が並んでいます。『おもちゃ箱のよう』という表現はありきたりかもしれませんが、とにかくここにいると小林さんの個性的な世界を感じます。これは、言わばモノが何かを語っているのではないかとも思えます。ただ、モノの世界というのは実はアブナイところもあって、最初の興味から離れて集めることが目的になってしまうことが、子供のコレクションなどではよくありはしませんか?

「それは、例えばチョコエッグのおまけで1番から3番と5番と6番が揃っていると、抜けている4番がどうしても欲しくなっちゃうようなことでしょ(笑)。ぼくにはそういうことは全くないですね。また本や鉱物標本などは、見る人によっては物質としのモノに見えるかもしれませんが、ぼくにとってここにあるもののほとんどすべては、いわばこの世とは一体何かを知る、あるいはそれに近くための手段だとも言えるんです。ですから、本たちの中にある見えないはずの風景や標本たちから感じる不思議な存在の意味のようなものがぼくにとってはとても大切なのです。それが結果的に集まってくるだけのことなんです。ここにある鉱物の中には、現在は世界のどこでもほとんど採掘されていないため希少価値がある、かなり高価なものもありますけれど、その反面、夜店で売っているようなものもあります。それはその時『どこか心を惹きつける』と思うからつい買ってしまうんです(笑)。

ただここで大事なことは、美しいと感じるものに出会うという体験はとても大切だということです。なぜならそれは人によって全く違うものであるか、あるいは共通する部分があるのかを感じることでもあるからです。子供でも大人でもその人がどこに惹かれたり気になったりする事柄や出来事に、その人の個性や核心に触れるヒントみたいなものがあるんじゃないか。また現代のように便利や効率が求められると不思議な世界と出会いながら、科学や美術に接してきた歴史もだんだんと経済に取り込まれてきたという感じは否めないと思うし、人間や力のあるものを中心に考えが進んでいくという傾向があると思うんです。

大切なのは、天然の神秘に出会うことによって、ぼくたちがその美しさを感じて生きていく、そういう生き方を決して無意味とは思えないからです。」

小林健二の書庫
(2005年「STUDIO VOICE」記事からの複写)

小林健二アトリエの一角
(薬品や樹脂などの棚)

小林健二アトリエの一角
(実験中の自作結晶などが見える)

一般に私たちは、美術の教育というのは、絵を描いたり彫刻を作ったりする製作体験をもとにした表現行為だと理解している気がしますが、今のお話からすると、美術や美術教育の意味はもっと広く捉えられるというわけですね。

「美術というのは、そこにあるもののことではなく、作品とそれを作る人、それを見て感じる人との関係や、その人の生き方だろうと思います。一方、Educationというのは、ラテン語の『道を拓く』という意味からきていると言われています。人が歩けないような荒野に道を切り拓いていくことです。ただし重要なことは、その道を歩くことを誰も強制されいことでしょう。どの道を選ぶかということは一人一人が判断していかなければならない。明治になって日本語になった『教育』という言葉も奥深い意味を持ってはいますけれども、子供たちに教え、彼らを育んでいけるような見識を持った大人たちが、今はどれだけいるだろうかということが気になります。単に自分たちの価値観を押しつけて「いるだけれはないのか。義務教育という制度にしても、全ての子供たちは教育を受ける義務があるという意味だと理解されているのではないかと思いますが、本当はそうではなくて、これは大人の側に教育制度を整える義務を課しているということであって、子供たちが教育を受ける権利を保障しなければならないということですよね。」

確かに、これまでの教育にはみんなが同じことをすることを通してある到達点を目指していくというような授業が多かったようです。けれども最近ではそれを反省して、図工・美術の授業でも、同一時期の中でも子供たちが自分に合った様々なスタイルの製作を認めていこうという方向になりつつあるようです。

「それは当然といえば当然だけども、いいことでしょうね。だってもし本当に『ある到達点』というのが存在するとしたら、それはある水準に達するという意味ではなくて、それぞれのその人自身に出会えるということだろうと思うからです。例えば、石を見て『きれいだなー』って感心している子がいるとしますよね。それを見て横から『いつまでもそんなことしてないで勉強しなさい』なんて言っちゃうお母さんがいたりしますが、これは違うと思う。そうやってものを見て感動すること、きっとこれがその子の本当の勉強なんです。だってその子はその出来事に出会うために生まれて来たかもしれないでしょ(笑)。そしてその子の人生の目標と方向を発見するかもしれないわけですよ。こう言う時の子供の目はものすごく輝いている。それが、本当に勉強をしている子供の目だと思うんです。」

*2002年のメディア掲載記事(小林健二へのインタビュー)より編集抜粋しており、画像は新たに付加しています。この記事は教育関係メディアに掲載されたため、質問内容が主に美術教育に関するものになっております。

KENJI KOBAYASHI

 

微小世界への跳躍方

小林健二個展[EXPERIMENT1] Gallery Myu (健二自作の多重焦点 プレパラートを実際に顕微鏡で来場者がのぞくことができる。また壁面には、ピンクのバックライトに光るプレパラート作品が展示された。)

小林健二の自作多重焦点プレパラートと健二の顕微鏡。この場所で来場者はプレパラートをのぞくことができる。

小林健二自作の多重焦点プレパラート

ー顕微鏡の焦点深度って、ものすごく浅くてそこが顕微鏡の扱いにくさだったりするわけですが、小林さんの発表された「多重焦点プレパラート」作品は、逆に焦点深度の浅さをうまく利用していて、大変興味深く拝見いたしました。

「ああ、それはうれしいね。」

ーそもそもプレパラートでこのような作品を制作してみようと思われたきっかけは、なんだったのでしょうか?

「きっかけは一つだけじゃないんだ。小学校の時にプレパラートの下にゴミが付いててさ、気づかす見てたら、そこに焦点があっちゃって。間違えたものを見ててね。それが面白かったんだ。・・ってまた、子供の頃から透明なものを見るのが好きで、ゼリーとかビニールとか半透明のものとかもね。次々と中に入り込んでいくんだよね。ボヤけると次のものが見え、さらに次のものが見え・・・ってなる。」

ーゼリーの中に潜っていくような感覚がある、と。

「そう。そういう楽しみや経験の積み重ねが、後に『多重焦点プレパラート』につながったのかな。」

ープレパラートを本格的に作っていかれたのは、いつぐらいなんですか?

「10代の後半くらいから。その時、染色したり、スクリーントーンを貼り付けたりして遊んでた時期があって。永久プレパラート*を作る技術もあったから、いろんな植物の断片を切り繋いでみたりしていたんだ。その時に、あるものをカバーグラスでおさえて、ステージを上げたり下げたりして見ると、焦点深度によって違うものが見えてくる。これは楽しいよね(笑)。」

ー顕微鏡だからできた『遊び』ですね。

「これのいいところは、二つの切片を比較するときに、本来であればわざわざプレパラートを変えなければならないところを、上げ下げで同時に見られるでしょ。

あとね、『ポケットに入る作品』を作りたかったってのもあるんだ。一回の展覧会に必要な作品が、プレパラートなら30点作ってもポケットに入ってしまう。それまでは何メートルもある作品を作っていたけど、逆に小さなものも作りたかったんだね。」

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。鉱物結晶の切片、顕微鏡写真も健二による。

ー実際に小林さんの作品を見てみると、植物などの細胞の美しさに驚かされます。本に載っている写真を見るのとは違い、直接目を刺激する光は、こんなにも美しく強烈な印象を与えるものなんですね。自分の目で観察して見る重要さについて、どうお考えですか?

「まさにそのことで、自分がここにいて何か切片があって、その切片までの距離は変わらないのに、顕微鏡を通すことで急に見え方が変わってくる。ある種の翻訳機というか。」

小林健二の自作多重焦点 プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も健二による。

ー同じものなのに別のもののように感じられうわけですね。

「例えば、いつも食べているタマネギを顕微鏡で見ることで、普段見えているだけじゃない、もう一つの意識・・・チャンネルが増えるっていう。それは無意味なことじゃないと思うよね。今、いろんなものが解明され、それが常識化されている部分って多いでしょ。ウイルスや血液の構造とかね。少なくともぼくらは教科書で見て、『あっ、こういうものなんだ』って思うわけだよね。」

ー実際、自分の目で見た経験をどれくらい持っているかって言われたら、ほとんどの人が持っていないですね。

「そうなんだ。だからこそ、こういうことが顕微鏡を除き始めるきっかけになって、一つでも実体験を増やしていけることにつながればいいよね。」

ー顕微鏡の発明によってミクロへの扉が開かれたわけですが、初めてミクロ世界と出会った昔の人々は、どんな気持ちで顕微鏡を覗いていたと思われますか?

「顕微鏡で何を見るのか、これは人間の生命を見ようとした一つの原形だと思うんだ。だから顕微鏡で探していたのは、人間の心の在処みたいなものだと思う。命を見れないなんて、誰でも知っているよ。だけど見たいっていう願望はある。だからこそ自分の血液、細胞を見たり、動物を解剖して見たり、それで見えるものは、日常の知覚を超えているんだよね。その先に欲するのは『命ってなぜ生きているんだろう』ということ。」

小林健二の自作プレパラート。顕微鏡写真も顕微鏡写真も健二による。

ー生命の神秘に近づきたい。その気持ちで覗いていた。

「植物であれ動物であれ、生命に対する意識っていうのは、昔は宗教の領域だった。それが顕微鏡によって、科学や日常の中に少しずつレールが敷かれて行った。顕微鏡っていうのはかつては生命との交通を、人間が試みようとしたものなんだね。逆に考えると、『顕微鏡を作りえた心』は、執念というか、この『見えないはずの世界を見ようとする機器』を発明してから、今日の顕微鏡に辿り着くまで、たくさんの人の知恵が働いているはず。そこまでして人間は顕微鏡を作って覗こうとしてきた。顕微鏡ができる前は、風邪を引いた、それだけで人が死ぬなんてことがいっぱいあったから、一人での多くの命を救いたいと思ったり、一つでも神秘的な生命原理に近づこうとした人たちが、半ば命がけでのぞいていたと思う。しかも、以前は日中でしか研究できない、晴れたからでき曇ったからできないってこともあった。その日の状態に影響される。ハイリスクは当たり前の中で、限られた時間、限られた条件の中で、やってきた人たちがいっぱいいたわけじゃん。ぼくは顕微鏡が便利で安くなれば、誰でも見られるというものじゃないと思う。見ようとする意志がどのくらいあるかっていうことによると思う。」

ー昔の人は、一瞬一瞬にものすごい執念をかけていたんですね。

「昔の人というということで言えば、顕微鏡を覗いてきた人の中には、当然、歴史に名を残すことなく終わった人も沢山いることを、忘れてはならないと思う。名前の残っていない無数の人々の努力があり、そういう積み重ねは決して無駄ではなく、その積み重ねにより進歩がある。この世は、無名に終わった人々の努力の結晶で成り立っているんだ。」

ー小林さんの言葉にある、『無名的結晶性』ですね。

「みんな、今の世の中は有名にならなければならない、立派にならなければならないっていうんもを刷り込まれている。若い人たちが『どうやったら成功できますか』とか『どやったらメジャーになれますか』って。その気持ちっていうのは、自分というものが生まれてきて、その価値を無駄にしたくないってことから出ているとは思うけど。」

ー無名で終わることを恐れている。

「でも逆にね、どんなにひっそり咲いているように見える花でさえ、咲いているっていう現象から見れば、全然堂々としているわけだよね。また、顕微鏡を覗けば、鉱物の結晶や細胞膜、ケイ藻が、誰かに見せるために美しいわけではなく、ただ存在自身がそこにあるっていうことが確認できる。それは、どんなに光の当たらない生き方をしていても、世の中には無駄なものはないんだ、とぼくたちに教えてくれているんじゃないかな。」

ーとても勇気付けられる事実ですね。

「ぼくは子供の頃から顕微鏡を覗いているけど、自分っていうものがどれくらい価値があるのか問う世界ではないんだって気がしてくるんだ。なかなか出会えない世界に触れているっていうだけで、今日一日が恵まれたような気になる。」

ーそのような満たされ方は、なかなか出来るものではないですよね。

「情報が先行しちゃうと・・情報だけが錯綜してしまうと、それを知らないと自分が取り残されている気になる。文明の恩恵にあずかれていないんじゃないか・・・そんな潜在的なコンプレックスを持ってしまっているのかな。」

ー多くの人が体験しているものは自分も体験しておかないといけないんじゃないかと、思うんですね。

「顕微鏡だけど、これは、中に集約していくものでしょ。何かを覗こうっていう意志がなければ、覗くことができない。漫然と見ることができない。深度も狭い、何をねらうか、はっきりしていなければならない。」

ー目的意識が相当はっきりしていないといけませんよね。

「タマネギの皮を見るにしたって、タマネギを買ってきて、皮をはがして、ガラス板にはって・・・と、明確な意思がないとそこまでやらない。そうすることで、何をしようとしているのか、一つ一つ認識できるわけだよね。だからと言って、タマネギの皮を見て何になるのって聞かれたって(笑)、何になるかはその人次第だと思う。

顕微鏡を通して、何かを探そうとしているのは、自分の内側にあるものになるよね。自分の目で直接見ることで、新しい自分を発見することもあるかもしれない。自分の生き方や考え方をフィードバックして考えるには、顕微鏡はいいアイテムだと思う。つまり、顕微鏡は自分を見るための、『鏡』、自分の内面を写す鏡なんじゃないかな。」

小林健二個展[EXPERIMENT1] Gallery Myu (健二自作の多重焦点 プレパラートを実際に顕微鏡で来場者がのぞくことができる。また壁面にはバックライトに光るプレパラート作品が展示された。正面に見えるのは偏光顕微鏡で、鉱物のプレパラートが映し出されている。)

*2004年のメディア掲載記事を編集抜粋し、画像は新たに付加しています。

プレパラートと森の友人

複焦点プレパラート製作法について

KENJI KOBAYASHI

複焦点プレパラート製作法について

光学的な顕微鏡の観察は、実体顕微鏡のようなシステムを除くと、ほとんどがプレパラートの製作と関係している。そして、プレパラートと言っても、動物、植物、鉱物、金属、樹脂など、それぞれに独自な技法を、用する場合も多く、生物系では一時的な観察の為のものから、何年もの保存に耐えるものまで、種々の作り方がある。

スンプ法(セルロースの板を薬品で膨潤させ、試料に押し付け、型をとって、その表面を観察する方法)や、封入法(シリコンゴムなどで立体物を封入して観察する方法)まで入れると多様だ。ホビーとしてはあまり聞いたことはないが、ぼくは結構楽しんでいる。まして、それらを色々に染め分けてみたり、また組み合わせてみたりすることは、無限に発想を与えてくれる。

このようにして作られたプレパラートは、本来のサイエンスとしての意味はすでに逸脱せざるをえないものでも、コハクの中の昆虫のようだったり、あるいは多くの色彩を持つが故に、まるで宝石のように輝いて見える。

また、複数の切片を積層して作るプレパラートは、顕微鏡のように焦点距離の極めて抵深度のものでは、複数の焦点を持つことになる。もう少し解りやすく言えば、一枚のプレパラート上で、動物細胞を観察中に焦点を変えて行くと、植物細胞にピントがあって、あたかも動物細胞が、植物細胞へと変化したような不思議な錯覚を得ることになる。

最近実験中?なのは、薄く培地を引いたLSIのマイクロフィルムの上を移動する細胞性粘菌の実態撮影である。技術的にはなかなか困難なことであるのに、科学的進歩には何ら貢献しないわけだ。しかしながら、情報が氾濫する時代の中で、見ようと意志しなければ見えない世界は、ぼくにとっては、どういうわけか安心を与えてくれるのだ。

投影型偏光顕微鏡 このような小型(投影型では)のものを最近あまり見なくなった。今回のようなギャラリーでの展示に使用するのには上部の投影板(像が映る曇りガラスの部分)は暗く、照明用の ハロゲンランプの発熱の為必要な、強制冷却ファンの音が大きく、必ずしも理想的ではないかもしれない。個人的観察の為に入手したもので、比較的安価出会ったのと、何よりこの奇妙な形体に引かれたところがあった。

投影型偏光顕微鏡
このような小型(投影型では)のものを最近あまり見なくなった。今回のようなギャラリーでの展示に使用するのには上部の投影板(像が映る曇りガラスの部分)は暗く、照明用の ハロゲンランプの発熱の為必要な、強制冷却ファンの音が大きく、必ずしも理想的ではないかもしれない。個人的観察の為に入手したもので、比較的安価出会ったのと、何よりこの奇妙な形体に引かれたところがあった。

光学的単眼顕微鏡 この顕微鏡は長年使用しているものだ。少々ガタがきているので、時間のある時にゆっくり分解掃除をしてやりたいと思っている。これはまた、決して高価でも最新型でもないが、通常のプレパラートの観察では十分力を発揮してくれる。上の写真では、写真撮影用のカメラアダプターとカメラが取り付けてある。高倍率の実際の撮影には、あと外部にケーラー照明の光源が必要だろう。

光学的単眼顕微鏡
この顕微鏡は長年使用しているものだ。少々ガタがきているので、時間のある時にゆっくり分解掃除をしてやりたいと思っている。これはまた、決して高価でも最新型でもないが、通常のプレパラートの観察では十分力を発揮してくれる。上の写真では、写真撮影用のカメラアダプターとカメラが取り付けてある。高倍率の実際の撮影には、あと外部にケーラー照明の光源が必要だろう。

円筒ミクロトーム これは植物などの切片材料でプレパラートを製作するときには欠かせないものだ。丸い穴の所に試料をはさみ入れ、シリンダーの部分をマイクロゲージのように回転させると、わずかにせり出して来るので、そこのところを下にあるカミソリで薄くそいで切片を作る。このミクロトームでおよそ1メモリ=10マイクロの精度を持っている。

円筒ミクロトーム
これは植物などの切片材料でプレパラートを製作するときには欠かせないものだ。丸い穴の所に試料をはさみ入れ、シリンダーの部分をマイクロゲージのように回転させると、わずかにせり出して来るので、そこのところを下にあるカミソリで薄くそいで切片を作る。このミクロトームでおよそ1メモリ=10マイクロの精度を持っている。

小林健二[EXPERIMENT1]

薬品など
プレパラートを作るためにはスライドガラスやカヴァーグラス、及び薬品などが必要になる。ここの説明はさけるが、以下のようなものがある。バルサム、エタノール、ホルマリン、ファーマー溶液、カルノア液、ファン液、アセトカーミン液、酢酸オルセイン液、ゲンチアナヴァイオレット、ズダンスリー、サフラニンファストグリーン、ギムザ液、ヘマトキシリン液、ジェンダー液、シャウジン液、スンプ法材料等々。

ミクロトームを使用してプレパラートを作るとき、最初よくやるのが、葉や茎の断面だ。でもこれはなかなか奥が深くて、染色法二よっては、本当に鮮やかな色彩に出来上がる。左の写真はツバキの葉の断面だけど、ときにおいてはちょっと変な地球外的生物や、有機的未確認飛行物体のように見えて面白い。

ミクロトームを使用してプレパラートを作るとき、最初よくやるのが、葉や茎の断面だ。でもこれはなかなか奥が深くて、染色法によっては、本当に鮮やかな色彩に出来上がる。上の写真はツバキの葉の断面だけど、ときにおいてはちょっと変な地球外的生物や、有機的未確認飛行物体のように見えて面白い。

これは動物の硬骨組織と淡水植物プランクトンのケイ藻類との重複プレパラートだ。もちろん写真ではどちらか一方しか焦点が合わないわけで、この場合は硬骨組織にピントが合っている。 科学的根拠はほとんどないが、硬骨を形成するカルシウムは、生命現象を地球上に強く関係付けている物質である。有機的な物質というとぼくはどうしてもカルシウムを連想するのは、それによって作られる動物の骨、人も恐竜も共にその外形はいつも有機的だからかもしれない。 また、ケイ藻などは名の示す通り、細胞膜にはペクチン質を基本にしていても、それ以外はケイ酸化合物によって作られている。 ケイ酸イオンは、ぼくにはシリコンウエファーなどを連想させて、無機的なイメージが強い。共に高倍率では、結晶的な構造が強くて、生物における精神や意識の所在を、ふと考えさせられる。だからこのプレパラートは、ぼくにとっての無機と有機の生物学的結合なんだ。

これは動物の硬骨組織と淡水植物プランクトンのケイ藻類との重複プレパラートだ。もちろん写真ではどちらか一方しか焦点が合わないわけで、この場合は硬骨組織にピントが合っている。
科学的根拠はほとんどないが、硬骨を形成するカルシウムは、生命現象を地球上に強く関係付けている物質である。有機的な物質というとぼくはどうしてもカルシウムを連想するのは、それによって作られる動物の骨、人も恐竜も共にその外形はいつも有機的だからかもしれない。
また、ケイ藻などは名の示す通り、細胞膜にはペクチン質を基本にしていても、それ以外はケイ酸化合物によって作られている。
ケイ酸イオンは、ぼくにはシリコンウエファーなどを連想させて、無機的なイメージが強い。共に高倍率では、結晶的な構造が強くて、生物における精神や意識の所在を、ふと考えさせられる。だからこのプレパラートは、ぼくにとっての無機と有機の生物学的結合なんだ。

白雲母(Muscovite)と普通輝石(Augite) これらは共に珪酸塩鉱物である。ただ、前者フィロ珪酸塩と後者イノ珪酸塩出会って、偏光顕微鏡で観ると、見え方はまるで違う。しかし、両方共とても美しく、数多くの色を発色する。このプレパラートはただ単純に合わせて見ると、奇麗かなと思って作ってみた。

白雲母(Muscovite)と普通輝石(Augite)
これらは共に珪酸塩鉱物である。ただ、前者フィロ珪酸塩と後者イノ珪酸塩出会って、偏光顕微鏡で観ると、見え方はまるで違う。しかし、両方共とても美しく、数多くの色を発色する。このプレパラートはただ単純に合わせて見ると、奇麗かなと思って作ってみた。

上記以外のものでは、雲母の中のミジンコ。(次回の記事でご紹介予定です)

鉱物中に生命体が封じ込められていることは通常ありえないが、載物台を回転させて、種々の色が現れると、まるで時間が止まった水の中を泳いでいるようで面白い。あるいは、分子雲を写したフィルムの上の夜光虫、種々の花粉の咲き乱れる中の小さなテクタイト。銀河のように見える扁平上皮細胞の上の赤いゾエアは、ロボットの様だ。網膜の断面の横にリシウム鉱が偏光しているのも、とてもきれいだ。植物の切片や鉱石の薄片が紡いでゆく世界。ぼくの心を虜にしてしまう。

解説+写真:小林健二

*1993年の小林健二ART BOOK[EXPERIMENT1]に書かれた文を編集し、当時の写真がモノクロだったため、画像もモノクロで掲載しております。

KENJI KOBAYASHI