「透質層と透明体(9/21-10/19)」開催期間中に作家からの話を聞きたいとの要望が増え、急遽10/5にギャラリートークが企画されました。
今回も小林健二による不思議な世界が画廊に現れ、素材感を忘れさせてしまう風景が表出されていました。それでもよくよく作品を覗き込んでみると「どうやってこの透明感が表現されているの?」「いろいろな形を持った透明体は何?」「透明と言っても一種類ではないのが不思議」
私たちの生活の中で透明なものと言ったら「水」を思い浮かぶかもしれません。人によっては「ガラス」や「プラスチック」?でも比べてみるとみんなそれぞれに透明なもの・・・大きな括りの中に存在する透明なものたち。
小林健二が好きなものをあげるときに「水晶」や「クラゲ」と言ったものがしばしば上がります。
そして「透明なものが好き」と話します。まさに好きなものがテーマとなっているこの展覧会だから、作品からはゆったりとした無垢な雰囲気が漂っている、勝手にそう感じていました。
ギャラリートークでは透明な素材を加工するのに使用した小林の手道具などがテーブルに置かれ、多分それは本人が安心材料として持参して来たとも思われます。
綺麗に仕立てられているその道具についての話にたどり着く前に、質疑応答によりあっという間に予定の2時間が過ぎてゆきました。
今回の作品はやっぱり実物を見ることが大事と思えるものばかりでした。印刷物や撮影したものではとても感じ取れない、奥深さがありました。
*会場に貼られたパネルの文章(標本仕様のXEDIA作品に付く小冊子より)
XEDIA
ケノーランドは絶対年代として、新太古代に存在していた超大陸である。
その後大陸の移動の分裂接合によって形成と破壊を繰り返しながらも、一部は近現代に至ってもなお盾状地(じゅんじょうち)として残っていた。この台地が最初に人間の歴史に記されたのは1612年にオランダの五人の登山家たちによるものだった。その台地の四面がほぼ垂直に切り立っているために当時は山頂部の状況は観測できなかったが、1860年代に地上より測量されおよそ標高3500m、四辺がそれぞれほぼ7kmである事が確認された。1930年代の偵察機及び空中写真術の発達により粗方の地図の作製を開始したものの、作業はその上底部が一年の9割近くを濃霧が立ち込めている事に依って難航し期間を要した。但し一部に800m位の滑走路として使用出来そうな平坦な場所が見つかった。当初それは光を強く反射する事から不安定な氷原とも考えられたが観測の末に着陸可能な場所として判断される。その後世界情勢の不安などの諸事情により1950年代初頭まで研究は中止されていた。1955年フランス及び英国によって結成された第一次調査隊によって辛くも着陸に成功したものの表面の薄雪により機体が安定せず、当日中に下山を余儀なくされた。その際その高地の滑走路を「奇妙な場所」としてパイロットたちはXedia(キセディア)と呼ぶようになった。1957年の第二次調査隊はそれまでの情報を精査していた為、登頂着陸に成功し38時間に及ぶ調査を終えて無事に帰還した。永い間その聳え立つ架空台地は外界との遮断によって、独自特別な生態系を持っていることが報告された。1960年代、各国の調査隊は発達した航空機、高山装備によって続々と新たな種の動植物及び鉱物を発見し、それらは一部の機関の耳目を集めたが資源確保、生態系保全の観点より1965年3月4日より公開を前提として、国連主導のもとWWF(世界自然保護基金)なども参加して本格的な調査研究が始められる。それにより1967年5月までに動植物等およそ6300、鉱物70余の新種が報告された。
しかし世界を最も驚愕させたのは人類、もしくはその亜種によって製作されたと思われる土器様の発掘物の発見であった。その発掘場所は暫時滑走路として使用していたキセディア地区であった。
発見のきっかけは着陸後の機体を整備点検していたパイロットが、航空機のタイヤの轍の下に氷のような透明な部分を見つけ、その下に何かが埋まっている事を知らせた事から始まった。
キセディアは直ちに規制され、急遽IARF(国際考古学研究機関)よりスウェーデン隊、日本隊が派遣された。これら出土品には特徴があり第一には、大きさが約10mmくらいから60mmくらいに収まり、分布状況が1.25mの正方面に意図的に配置されていること。そして第二には放射性核種、蓄積線量を検出できず、さらに熱残留磁気、地心双極子にも応答せず、これらの製作年代はまったく測定できないということだ。また、これらの発掘状況の全体像が把握しづらかったことは、この脆弱な人工的製作物は約20cm石英状硬透質の珪酸層に堅く包まれている状態にあったため、目視できても対象物を破損せずに回収することが技術的に障壁となり、一般には全ての状況は開示はしないまま次第に研究者の極度の体調不良、遅疑逡巡、意欲減退、各國の成果より資金不足及び世界情勢が再び混乱した事といった理由から1972年までに各国によって報道管制なども敷かれ、半ば強制的に再び「前世紀の闇中」にまで押し込められ忘れ去られていったのである。
(以上は大略で他は専門的な分野での仔細な報告となっているが判りづらい故に省略。)
共に付されている当時の報道の断片などを見ると、今にして思えば、この終焉には謎や疑問が多く残った。そもそも世界的な規模によって始められた研究計画がこの様に人心から消え去るものであろうか。そして特殊な考古学的発見に要因すると見られる一連の出来事が、他の貴重な諸々の研究までも中止に追い込んだという事なのか?確かに考古学隊のみ幻覚を伴う意識障害が重症化したと言う事柄は、その標本に直接触れた者だけの事であり、標本に付着した有毒物質や未知の原虫、細菌の感染も疑われていたからなのか。すべての研究に携わった者たちの沈黙に加えて、大国の政治的関与も囁かれる中でもあったと云う事だ。
ノートの断片よりー
ーかつてここに居たものたち・・・
硝子の大地に幻影を封じて
自らは何の心残りのないかのように
跡形もなく消え失せてしまった。
かつて 人格を持つ唯一の神などを求めず
岩や山、木や森、海洋を崇敬していたのだ。
大宇宙と意識を共有し
流れの中に記憶の種子を残していった・・・
宇宙には目的がある。
人間には計り知れない目的だが
それは穏やかな川の流れのようなものだ
それらは身を浸したとき、争いも競うことも不要になって
それほど多くを持たないまでも
正当に命をまっとうできると伝えている。
小林健二