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電波と戦争

電波の研究や発展と戦争とは切っても切れない関係にありました。もちろん現代においてもその事実は少しも変わっていないでしょう。明治38年(1905年)5月27日午前3時30分、対馬海峡を北上するバルチック艦隊を発見した仮装巡洋艦信濃丸は「テキカンミユ」の無電を朝鮮南岸の鎮海湾に待機していた日本の連合艦隊に発信しました。そしてその信号を受け出航した連合艦隊の先頭に立った旗艦三笠からは大本営に対して出撃の無電を打ったのです。「敵艦見ユトノ警報二接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ。」このことは日本の無線電信の歴史のなかで特筆されるべきこととしてよく紹介されています。

やがで昭和16年12月8日午前3時19分「全員突撃セヨ」、そして同時33分(東京時間)「トラトラトラ」(ワレ奇襲二成功セリ)。ここでも無電は使用されました。そしてその日の午前7時、国民はあの「臨時ニュースの朝」をむかえます。ラジオから突然の放送がはじまります。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

確かに戦争によって無線電信電話は飛躍的に進歩していきました。それはまだ音楽や落語などの娯楽のためのものではなく、あくまでも軍略的軍事的なものでありました。アメリカにおけるトランジスターの発明につながるのも、先の大戦中の鉱石検波器の再研究によるものと言われています。

これは日本の戦前のもので製品を改造してありました。入手当時、ツマミや端子の片方がこわれていたので、レストアしたものです。中には金属製のヴァリコンとスパイダーコイルが2つ入っています。

1930年後半の軍事用超短波の急速な進展で、当時の真空管では周波数特性が得られず使用できなかったことに端を発していたのです。

しかしどのように電波の世界が発展したと言っても、軍事による戦争のための開発や進歩は当時の国民にとって何ひとつよいことをもたらさなかったと言っても過言ではないでしょう。

戦前の日本製でこのラジオと最初に出会ったときは、すべてがメチャクチャにこわれていました。時間をかけてツマミを作リコイルを巻きなおしヴァリコンをなおして、できるかぎり当時の状態を再現してみたものです。ほとんどのパーツがひどいダメージを受けていたのにかかわらず、茶色になったセロファンに包んだ方鉛鉱がピカピカのまま箱の底に入っていたのは印象的でした。

遠くの土地や見知らぬ国の人々と自由に話し合いたいという願望によって産み出されたアマチェア無線局も、昭和16年12月8日の大戦開始とともに電波の発射が禁止され、同月13日からは受信も禁止されました。そして一般聴取できる放送は大本営の発表する戦局放送へとしばられていきました。

とりわけぼくが悲しく思うのは、昭和の大恐慌の最中に生まれた少年たちのことです。「少年技師」のところでも触れているように、当時の少年たちの憧れは模型飛行機を作りながらいつか大空を鳥のように飛び行くこと、あるいは無線電信による方法で未知の遠い国の仲間たちと大いに交信を持つこと、それらはともに少年たちに開放感のある自由を感じさせたことでしょう。しかしながら国民の生活は逼迫するばかりで明るいきざしは見えてきません。

そんななか、国は「大東亜共栄圏構想」をうちだします。それはアジアの国々に進出してくる西洋国家によって、それぞれの国や民族の固有性が破壊されるばかりか植民地として自由を奪われている実状を打破し、広くアジア世界全体が助け合って一つの大きな共栄圏をつくろうというものでした。その美しく思えた理念の底に軍部の侵略的思想が隠れていたことを彼らは知る由もなかったことでしょう。開戦後軍部はこの理想を実現すると称し、少年たちに聖戦参加を呼びかけます。陸軍に発足した少年通信兵学校に志願したもののなかには、自分の得意なことで何か国の役に立てるかもしれないという自負があったといいます。もちろんいつも腹ぺこで甘いものには縁のない彼らにとって、入学すればひと月に1回ある誕生祝いの会で赤飯、牛乳、きんとん、果物などを食べられるという情報に惹かれる子供らしい気持ちもあったかもしれません。

電波塔と少年たち

この少年通信兵たちは、はじめ陸軍学校のなかで教育を受け、昭和17年に陸軍少年通信学校として独立し、さらに昭和18年10月1日からは東京と新潟に創設された少年通信兵学校で学びました。少年兵としては通信兵はいちばん早く生まれたのですが、その理由は指が柔らかく固まらない少年のうちに無電のキー叩きを覚えさせるためでした。そして戦地へ赴き、仮に死に直面したときでも、通信兵は電鍵をにぎり決して離すなと教えられるのです。

少年通信兵に1年遅れで発足するのが少年航空飛行兵たちです。

本来なら自由な空や未知の国との通信にあこがれていた彼ら少年兵たちこそ、平和や自由を愛していたにちがいありません。否が応でも激戦地へと向かわされていった彼らは、ほとんどが15歳で、その大半は生きて再び戻ることはありませんでした。そしてこの通信兵として生きた少年兵たちの電波との最初の出会いこそ、まぎれもない鉱石ラジオだったのです。

屋外に立って空を見つめている少年の絵は、 1922年のJUDGE誌4月22日号から転載したものです。タイトルの「無限への同調」は、まさに少年技師たちの心を感じさせます。そして同じ絵は大正14年(1925年)の「無線電話之研究」(安藤博著)のなかにも「無線研究家の面影」と題されて使われています。そしてその絵の下には以下のような文が添えられています。
「月光がさんさんと静かに照り輝くある日の深夜、ひそかに起き出でてラジオを受信し、ああこれは何千哩の何局だ、これは何だ、またこの微弱なのは他の世界から来たのではないだろうか、あるいは火星からかしらんなぞと思いにふける青年を描いたものである。我々生まれながらにしてラジオに大いなる愛着を感じ、生涯をその研究に費やそうとするものは、いずれもこの種の経験と感激を有している。」

*小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」より抜粋編集しております。

KENJI KOBAYASHI