ー小林さんの鉱物との出会いというのはいつ頃ですか?
「小学校の低学年の頃に、ちょっとした事件というかある出来事があって、そのことがショックとなってひどい対人恐怖症になってしまったんです。
その頃ぼくは恐竜などが好きで、友だちとよく上野の国立科学博物館に行って担ですよ。今はレイアウトがかなり変わってしまったけれど、その時に鉱物標本室というような展示室があって、随分と印象的なところでした。
傾斜になった古い木でできたガラスケースの中に、整然とたくさんの鉱物標本が並んでいて、子供の頃からクラゲや石英のような透明なものが好きだったので、水晶のような透き通るものにはとりわけ目が行ったし、また藍銅鉱や鶏冠石(けいかんせき)といった色のはっきりとしたものもたくさんあって、とても綺麗でしたね。そんな中で、何回か通ううちに、たまたま学芸員の人が鉱物を色々説明してくれるようになって、鉱物に対する興味が一段と湧いてきたし、だんだんと鉱物を介して人とコミュニカーションを取ることができるようになってきたんです。
実は先ほどの事件というのは、大人の男性から受けたもので、大人の男性に対して恐怖を感じたことに端を発していたんです。その学芸員の人と、ひいてはその鉱物と出会うことがなければ、一体今頃どうなっていたかと思うんです。
今は多少笑いながら話せますが、当時は命を奪われるほどの恐れを抱いたので、それが少しづつほぐされていったのが、本当にありがたいです。」
ー35年以上前の話ですけど、鉱物との出会いは小林さんにとって貴重なものでしたね。ところでミネラル・ショーのようなものはなかったんですか?
「池袋や新宿で年に一回開催されていますね。当時は今のように鉱物をまとめて見る機会はほとんどありませんでした。神保町に高岡商店というのがあって、矢尻とか土偶と一緒に水晶のような鉱物標本がいくつか売られていたぐらいかな。
ぼくが成人した頃には、千駄木の凡地学研究社で鉱物を買うことができるようになりましたね。小さな木の階段をギシギシとスリッパに履き替えて上がっていってね。今となっては懐かしいね。」
ー海外ではバイヤーが集まるミネラル・ショーが行われたでしょうし、ショップもかなりあったんでしょうね。
「海外ではミネラル・ショーは以前から盛んで、特にツーソンやミュンヘン、デンバーなどはとりわけ有名ですね。今でもショップは数多くあります。日本では最初に「東京国際ミネラルフェア」がはじめられた時に、出店していた人たちもその後あんなに続くとは思わなかったんじゃないかな。でも当時に比べたら、鉱物標本を扱う店は増えたと思います。」
ー昔の標本屋さんはどんな感じでしたか?
「ぼくが子どもの頃ってほとんど日本で採れた鉱物ですよね。そうするとどうしても地味なんです(笑)。それに結晶性のものよりは石って感じのものが多かったですね。時々綺麗な鉱物があったけど、いいと思うものは当時のぼくが買えるような値段ではなかった気がする。
そういえばぼくが22-23歳の頃、凡地学研究社に半分に切断されたアンモナイトの一種が置いてあったんです。それは表面が真珠色で断面がよく磨かれていて、隔壁や外殻本体は黄鉄鋼化して金色で、さらにそれをうめる全手の連室はブラック・オパール化しているもので、もうそれは素晴らしかった。とりわけその中心から外側の方へ青色からピンク色へと変移していくところなんて、もうデキスギとしか言いようがなかった。」
ーそれ以降、同じようなものは見たことがないですか?
「ありませんね。その時は本当にこんなものが自然にできるのかと思ったくらいで、人間の技術や造形意識を超えた、天然の神秘な力を感じないわけにはいかなかった。今となって考えてみれば、天然を超える人間の美意識なんていうものを想像する方が、難しいと思うけど(笑)。
あとは無色の水晶に緑簾石(りょくれんせき)がまるで木の枝のように貫いて、その端が花のように咲いて見える大きな標本とか、細かい針状の水晶の群晶の中央に、真っ赤に透き通る菱マンガン鉱の結晶とか、言い出したらキリがないけど、色々な標本屋さんとかミネラル・ショーに行くと、博物館でも見られない標本を見ることができるのは素晴らしいことだと思うんです。」
*岩手の一関にある「石と賢治のミュージアム」では、鉱物展示用に設計された什器の中に、数多くの小林健二が選んだ鉱物が展示されています。
*2002年のメディア掲載記事より編集抜粋し、画像は新たに付加しています。