小林さんの仕事に関して、まず特徴的なのはその活動の広さ、例えば、美術の中だけでも様々な方法を取られているし、他に音楽、映像、文章など様々な分野に渡っていますが、そのあたりご自分ではいかがですか?
「ものを作ったり表現しようとする上で、何か規則や取り決めがあると窮屈に感じてしまう。一人の人間として生きていたいと思い、その発露として何かを作りたいと思うから、方法や様式に無理に当てはめようとは考えていない。」
“Erbium” written and vocal+guitar by Kenji Kobayashi from Kenji Channel on Vimeo.
*上記は中学生の時に作った音楽を2016年6月のトークショーの時に、オマケミニライブとして初披露。その時の動画です。(ライブ映像に新たに画像を足して編集)
CRYSTAL-ELEMENTS from Kenji Channel on Vimeo.
組曲[結晶]:suite”Crystal” composed by Kenji Kobayashi・published by RUTIL TWIN RABEL
*1980年頃よりカッセトテープなどに録音してきた小林健二の曲の数々を、2007年にCDとして編集しました。その音楽と小林の結晶作品[CRYSTAL ELEMENTS]とのコラボ動画です。
一人の人間として生きていたいとおっしゃいましたが、表現したいと思ったその時に、観客は小林さんにとってどんな存在なのですか?
「難しいことだから、すぐにはうまく答えられないんですが・・・まず自分の心の中に湧いてくる、それまで見たことのないヴィジョンや世界を、とにかく物質化したり具体化させて自分がまず見て見たいという欲求がある。それからきっと作り始めるけど、最終的にはそれで人や外界とのコミュニケーションの手段になるという思いがあるから、もし自分がたった一人で山の中で暮らしているとしたら、作るという必然性がぼくの中の個人的なものだけになってしまうと思う。だからぼくにとって社会との関係をはっきりさせてくれるような・・・。」
絵画技法はどう修得したのですか?
「絵画技法というとぼくの場合、どこまでか分からないけど、ぶきっちょコンプレックスが色々な道具を集めさせたり、好奇心が強いから色々調べ物をしたりすることも、結局は自分の興味のあるがままにやっているから、何においても独学になっちゃう。」
多くの作家はイメージをどう物質化するかで悩むと思うのですが、小林さんの場合はどうですか?
「それは難しいですよ。イメージと現実化した作品との間には多くの嘘も出てきてしまう。ただその「うそ」を積み重ねていかに「ほんと」に近づけるかということなんでしょう。」
作品集の中に「今あるものは、死が支えている」という小林さんの言葉が大変印象的だったのですが、このことについてもう少し説明してください。
「ぼくたちが着ている服の素材にしても、毎日食べているものにしても、ぼくたちの生活に欠かせないものはほとんど、動物や植物たちからもらったものでしょ。生きているものは、その命を投げ出してくれたものたちに、まさに支えられているんじゃないかな。だけど、スーパーに置いてあるきれいにパックされたものしか知らなかったら、その死の存在を想像できない。命が奪われるというドラスチックな光景をまのあたりにしていたら、その命への感謝は自然に生まれるだろうと思う。「死」から目を背けるような社会全体の流れがあるかな?
人間は自然を凌駕するのではなく、調和すべきだと目覚めてきた現代。
でも昔から日本人は自然や天然とともに生きて来たと思っている。それをあえて「反自然」へと生活の方向を変えて、素晴らしい過去の知恵を捨ててしまっているかのようだ。
木を切り倒すとき、木はなされるがままに、まるで拒むことなどないかのように死んでゆく。でもそんな時に木の叫びのようなものを聞いたような、そんな気持ちが人間の心の中に起こったら、やはりむやみに切り倒してはいけないんだという思いもわくかもしれない。
なぜ宇宙があるのか、終わりがあるのか、なぜ生きているのか・・・。難しい問いの前に、ぼくらの日常の流れに「死を意識することで、知ることができることがある」と、生の意味を変えてくれるように思う。」
リアリティということに対してどのようにお考えですか?
「リアリティ・・・・その言葉の意味がちょっと分かりづらいけど・・・。でも自分の生活に強く影響を与えた体験はあります。それは中学生のころ、不眠症が続いた後、一瞬の眠りにつくことができたとき、よっぽど今のこの現実より現実的な感じというか・・・その瞬間に体験したことがものすごくリアルだったんです。
光の粒子によって自分もその中に還元されていうような気持ちになった・・・。
その後童話のような文章を書いた、それは「ひかりさえ眠る夜に」と言って、ちょうどこんな感じなんだけど。
最初光しかない宇宙があって、時間も距離もない。だけど、宇宙自身が「自分とはなんだろう?」と思った時、光の一部が物質化するために集まりだし、光の速さでさらに外側に広がるから、人にはきっとビックバンに見えた。この光量子、高分子化してゆく事象には、細胞や多細胞を過ぎて小動物や人間に至ってもその存在への疑問は残される。光としての自由なイメージは残っていても、人はなかなか自由ではない。でもいつか全ての疑問が消えて光に戻ってゆく。実は自由な光が深い物質化の眠りの中で見たものが、ぼくたちのこの現実だという内容。結構この光の最初の願望こそが、生物が共有できる感覚ではないかと今でも変わらず思っているところがあるんです。」
*1991年のメディア掲載記事より抜粋編集し、画像は新たに付加しています。また「ひかりさえ眠る夜に」という個展が福井市美術館で開催された時の会場画像と図録に書かれた小林健二の文章を同時に下記します。
個展の詳しい内容はhttp://www.kenji-kobayashi.com/2003onanight.html
15才のときの出来事
「ひかりさえ眠る夜に」という言葉は、高校1年の頃の原稿用紙やノートに書いた童話っぽい物語から、タイトルをそのまま使ったものです。その文章を書いたきっかけと言えば当時見た「夢?」あるいは白昼夢のような一連の幻によるもので、しかしそれは夢と言ってもいつも浅い眠りの時に見るものとは大きく異なっていて、ぼくを驚かせ、印象的で、子供の頃から惹きつけられてきたすべての要素を持っていました。
その一連の経験は、何か神秘的な宗教体験とも思えないし、自分の上にだけに起こった特別な出来事とも考えませんでしたが、その鮮烈な衝撃はまるでローラーコースターに乗っているような強い興奮と、あたかも深海の中でしばらく気を失っていたかのように感じる神妙な気持ちがないまぜになって、ぼくを混乱させました。しかしながらそれは同時に、その後今に至るまでにも他には無い陶酔感をぼくに残したのです。
この客観的に観たら目立ちたがり屋の作り話に感じられるだろうことについて、自分なりにいろいろ考えたものです。
ぼくは中学の頃より不眠に悩まされ、幾種類かの薬を服用していたために、その副作用による一種の幻覚であったのかもしれないとも思え、専門医に相談したこともありました。彼は少し笑いながら「君の薬には君に夢を見させる力があるとは思いづらいけど、それが君にとって良い夢ならよかったんじゃない?」と軽くあしらわれた感じでした。
15才と言えば、楽しい事や悩みなども友人や誰かと共有したいととりわけ思う年頃だったと思います。しかし、ぼくはその「夢?」について誰かにすぐに話を聞いてもらおうとはしませんでした。
それにはわかりやすい2つの点があったからです。1つ目には「どんな友人だって他人の夢などにとても興味なんか持てないだろう」と思ったことと、2つ目に、その出来事について話すとするとぼくの表現力や語彙はあまりに稚拙だと知っていたからです。
しかし、その体験は一人のちっぽけな人間にとって、その後の生き方に確かに何がしかの影響を与えたのです。つまり幼い頃、兄からもらった望遠鏡で月や星を見て将来天文学者になろうと考えたり、タテ笛が好きだったというだけで笛吹きになろうと夢想したり、そんな風見鶏のように日々の関心で変わるそれまでの気分屋を、その出来事が何かの方向を探し続けたいと、非力ながら考えさせはじめたことは本当でした。
子供の時から絵を描く事は好きではあっても怪物やジョウロのようなへんてこなものしか描かない人間が、できるならずぅっと絵を描いていたい、そして宇宙や星の涯にある世界の事を考えたり、あるいはまだ巡り会えないでいる誰かや何処かのことを想い続けて手紙を書くような、そんな途方もないことをやり続けたいと勝手に確信してしまったのです。まさにそれほどその「夢?」はぼくにとってすばらしく、また美しかったのです。
ぼくは時々「夢見がちな人」というような評価を受けることがありますが、それはどうなのだろうと思いもします。なぜなら絵を描いたり、造形作品を作ることは思いのほか現実的です。技術的にも時には経済的にも時間的にも、あらゆる面に於いて生々しい壁は立ちはだかるものだからです。
でも、ぼくはこの仕事を通し子供の時からの内省的な自己を、外の世界と交通させたいと願ったわけですから、確かに「夢見がち」なのかも知れません。
人間にはもともと「本当の事」を探し続けようとする一種の特性のようなものがあって、それはまた人間の本質的なところでもあるとぼくには思えることがあります。でもそれによって人が担う事もたくさんあるのでしょう。「この世」と人間が感じているものが、人間のためにだけ存在しているとは思いづらく、逆に自分たち人間の社会を支えるために多数のものを犠牲にし、その上に成り立っている事を多くの人間たちは知っています。ですから人間がこの世の全体的成り立ちに就いて思考する努力を惜しんでしまったとしたら、この地球から人間がある日消え去ってしまった方がどんなにか、この星を楽にするような気がしてしまうのです。
約半世紀を生きている自分が夢のことを人生にまでふくらませて話していることが、どれほど愚かしく思われても仕方の無い事と十分にわかっているつもりです。しかし、的確なことばを見つけることはできませんが、「神」と一言で呼ぶことができない、この世を知りたいと願う「何か」によって深い眠りについた「ひかり」たちの夢の一部に、ぼくらの知る世界があり、それによって「この世」は生まれたと感じるような子供たちが世界に広がったとしたらどうなのか想像してみたいのです。この世界がすべて「ひかり」によって夢見られたものであるとしたら、いかなるすべての人の目や心にとらえ得る世界は、それこそ世界が探し続けているものであり、ひとりぼっちで風景を眺めていることも、どんなに辛さを感じている時でさえ、それはこの世が探していることの断片を常に担っているのであり、意味の無い人間は誰もいなく、またいかなる瞬間も必然性を孕んでいるということではないでしょうか。
すべての始まりはひとつのもので、あえていうなら「時間」という奇跡によって変成しているようにみえる現象であり、自も他も無く本来とても深いところで「全く同じもの」だと認識したら、その子供たちの心に宿る世界には「差別」、「戦争」、「略奪」といった、自分が自身をまるで奪い合い傷つけ合うのと同じ事が、どれほど無意味な事とその瞳に映るのではないでしょうか。
それこそ「ひかり」のもと居た場所までは、まだまだ遠いところであったとしても、そんな探すべき何かを知った子供たちや大人たちが地球人であったとしたら、それは遠メガネみたいに小さなものでも無数に集まれば巨大な望遠鏡となるように、まるで色とりどりの花々が空を見上げているように思えるでしょう。
宇宙は広く果てしなくても、きっと人間は孤独ではなく、友人たちはお互いに探し合っていていつか出会える筈だからです。
宇宙がそれぞれを発見し合い、それぞれの多くの謎を解き明かし連帯し合い、不変で永遠な最も安らいだもと居た場所へと還ってゆくようになったとしたら、それはとても素敵なことに思えるのです。
あの15才から30年以上経った今でさえ、偶然に出会った一連の夢のような出来事から与えられた記憶の方が、少しも色褪せる事もなく日々生活している日常より遥かに生き生きとしていて、表しきれない「本当の世界」のような気がしてならないのです。
小林健二
*[ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT]図録より