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小林健二インタビュー記事

ーものを作るとか描くことに、いつ頃から、どのような形で関心を持ったのでしょう?

「ぼくは子供の時に対人恐怖症で、ひどくあがり症だった。自分の気持ちをうまく人に喋って伝えることができなかったけれど、絵を描いている時には開放感があって気持ちが楽になったんだ。」

*小林健二の13歳違いの兄は、当時カメラマン志望で、時々幼い健二がモデルになったようです。残存する写真から2枚選びました。(写真:小林直紀)

ー天文とか科学に対する興味も、同じ頃に培われていたと思うんですが、家庭環境とか出会いのようなものがあるんでしょうか?

「いろいろ思いかえしてみたけれど、それは単なる気質なんじゃないかな。本当にもの心ついたときから科学博物館に行くのが好きだったし、虫や星や植物を見たり、石を拾ったりとかね。科学博物館には恐竜の部屋以外に鉱物の部屋もあった。そこで見る一連のものが興味の対象になっていったんだと思う。」

*小林健二が通っていた頃の国立上野科学博物館の外観画像です。

ー小学校の図画工作の時間は、どんな感じで過ごしていましたか?

「小学校の時は作るものを何か理由をつけて怪獣にしちゃったりするんで、子供ながらに先生にはごめんなさいという気持ちがあったんだけど、小学校の美術の先生も中学の時の先生も共に女性で、ぼくの描きたいものを抑えないで好きなように描かせてくれたと思う。それは今もいい思い出としてあるよ。それから小学校の時の先生は、銀座には絵を飾ってあるところがたくさんあるから一度行ってみようとと言って、日曜日にバスで案内してくれた。そんなとき好きなことを絵に描いてもいいんだ、という気持ちになったと思う。」

ー小中学校の段階で、もし先生がそういう対応をしてくれる人じゃなかったら、ちょっと変わっていたかもしれないですね。

「そうでなかったことを想像するのは難しいけど、ぼくみたいなものでも絵を描いたりすることによって人とのコミュニケーションが可能になるんだと信じさせてくれたことはあると思う。子供の時に自分が自由でいられたというのは大きいと思うね。」

ー美術の世界に接触するまでの話をもう少し聞きたいのですが。

「いつも絵を描いたりするようになって、ぼくが描きたいのは日常的な景色じゃないということを自分なりには感じていた。昔から、絵でも抽象的に見えるような作品を作っているんだけれども、ただ造形的な意味での抽象というよりは、すでに心のなかで抽象的にしか表現できない題材が多かったような気がする。

それはぼくは音楽が好きで、曲を作ったり、友達とバンドをやったりしていた。そして音に変化を与えるエフェクターを作りたいとも思っていた。当時、高くて買えなかったからね(笑)。そんなことが電気工作と出会うことになったりもしたんだ。」

*電子工作をする小林健二

ーでは、音楽に関してはかなり熱心だった。

「それは音楽が好きな普通の高校生や中学生と変わらないんじゃないかな。でも実家がレコード屋の関係だったからレコードがすごく安く買えた。ギターを弾くのが好きだったから、例えばジャフ・ベックをコピーしたり。今はあまり指が動かないと思うけど。あとはイエスやピンク・フロイドやP.F.M.、キングクリムゾンとか。ピート・シンフィールドの詩が好きだった。

ただ、自分で作る曲はミニマルな曲が多くて、サウンドとして広がりのあるものが好きだった。その頃は、みんなが言うように自分が絵を描くときの意識やヴィジョンと、音楽に感じてたり詩などから感じる世界とは分離していたように思っていたけど、やっぱりぼくにはだんだんそれらを隔てられなくなっていったんだ。」

*自作の曲 suite ” Crystal”と小林健二結晶作品とのコラボ動画です。

CRYSTAL-ELEMENTS from Kenji Channel on Vimeo.

ー私は最初の個展を知らないんです。

「最初の個展は、1984年で『UTENA』というものだった。その展覧会では、紙を漉いた立体的な作品に、自作の音楽をバックに流した・・・。トータルな環境を設定したいという気持ちがあってね。」

*小林健二初めての個展「UTENA」で展示された作品。 自漉紙、混合技法。

ーそれは今も変わってないですね。むしろスケールがどんどん大きくなってきている。

「ぼくは自分のペースで仕事をしたいという意識があって・・・。人からは、どんどん拡大して美術の業界にも積極的にかかわって大きいスペースで大きい作品を作っていったらいいのにと言われることも多いけれど、ぼくの場合、巨大なスケールの環境も、逆に小さいものを自発的に覗き込むというスケールも、共に両方のプロセスが大事なんだ。だから、大きくても小さくてもやりたいことがあると思う。」

小林健二個展『黄泉への誓(ウケヒ)』1990 Gallery FACE

小林健二が子供の頃から魅かれていた神話の中でも古事記や上記(ウエツフミ)に題材を求めた展覧会。数多くの作品が発表されたがそれらは個々のエレメントに対応して、全体的に一つのテーマを構築している。

水戸芸術館『BEYOND THE MANIFESTOー美術とメッセージ』展より
小林健二の展示「You are not alone」

 

水戸芸術館の展覧会『BEYOND THE MANIFESTOー美術とメッセージ』展におけるインスタレーション。旧約聖書の『ヨブ記』をテーマにした。小林はヨブ記の中に描かれている神は時折理不尽なほどに人間に対する不信から、人々を試しているように感じるという。また神にすら葬ることのできない陸と海の怪物(ビヒーモスとリバイアサン)は、共にいつの間にか死に近づいていく現代の天然の姿を暗示している。

ー見る側の立場から言うと、大空間で出会った作品が、必ずしもインパクトが強いと言うことは全くないですからね。

「そうだね。そして空間だけでなく、素材にしても適材適所があると思う。鉛やガラス、紙や絵の具などに対しても、場合に応じて扱い方や接し方が違ってくるし、工具やプロセスも違ってくる。

そして、それぞれの素材が持っている特性や魅力があるよね。でも大事なことはフィジカルな技術の問題じゃなくて、心の中にあるものと素材を結びつける方法というか・・・。イメージにいかに近づけていけるか、嘘をつかないで素直に表現していけるかという上でとても重要なことだと思う。でも技術が先行して表現が成り立つということはありえないんじゃないかな。表現力は一種の技術ではあるとは思うけど。」

ー小林さんのように多くの素材を自分の中で咀嚼し、作品として形成するアーティストは非常に珍しいですね。しかし真鍮を使っている人の場合でも、何が真鍮をその人に選ばせたかというと、紛れもない観念だったりするわけです。

「そうかも知れないね。ぼくのいう技術というのは、音楽なら音楽に対する上での表現力としてであり、それは楽器を弾くことについてだけではなくて、音楽を感じる感性でもある。例えば紙を切らせたら達人という意味の手わざとしての問題じゃなくて、あくまでもどうやって心の中にある目に見えないものを引っ張り出そうかという気持ちから生まれてくるもの。そのプロセスがとても大切だと思う。どれが今の自分の求める方向に一番ふさわしいかということだよね。だから木を彫らせたら彼だとか鉄を使わせたら彼だという意味での技術は、ぼくはあまり持ち合わせていない。」

ーでも先人の技術や知恵に対する尊敬の念はいつもあって、自分でも自覚している部分があるわけでしょう。

「『職人』という言葉の本来の意味は単なる技術だけじゃなくて、思考とか生き方とか、その人自身が持っている許容量とか、色々なものが関係してくる。それに対して、同じようなことだけをただ機械的に繰り返すという意味での職人のファクターが、今は必要以上に拡大されているような気がするけど。」

ーそれはアーティストにも言えますね。

「イメージよりも先に決まったスタイルを自分で作って、ただそれをやっていく場合はね。まさにルーティンワークになってしまうからね。だって馴れてくるんだから。どんな表現方法だって、最初にやった時の緊張感はだんだん薄れていくよね。表現者としては、緊張感がだんだん薄れて穏やかな状態で制作するということでは安定してるけど。自分らしい表現を取り入れていこうとするときに、誰だってそう最初からすぐにできないわけだよね。考えることも必要になるし、色々試みなきゃいけない。ところが、その熱意をずっと維持させるのは、自分にどうしてもその表現が必要だと感じる意識な訳でしょう。でなかったら、あえてそんな表現を取らなくたっていいんだものね。

自分が持っている技術やスタイルだけを行使し、自分の砦を作っていこうとすると、多かれすくなかれ、排他的になったり、自分の砦を守るためにやらなきゃいけないことが出てくると思う。それが成功すると一つの権威になっていくんだろうけどね・・・。ぼくは一人の表現者でしかないし、ある種の霊媒のようなもんだから、自分は一体何をしたいんだろうということを探しているのかもしれない。」

*道具好きでも知られる小林健二。骨董市などでは道具の店に集中的に目がいく。作業中での散策なのか手には絵の具がついたままです。

ーずっと探しているのですね。

「おそらく・・・。ぼくが作品を作るということは何かを探すことだと思う。物質を扱う以上どうしても技術は必要になってくる。だけど目に見えない部分を感じ取れる作品であることがぼくにとって大事で、例えば一本の木でも、風景でも、それは魂を乗せる船みたいなものなんだ。「仏つくって魂入れず」という言葉があるけど、大切なことは、形としてはなかなか表現しずらもの、目に見えないものを表現すること。当たり前のことなんだけど、コミュニケーションをするための一つの発露、それに音楽とか絵を描くという行為が連なっているんじゃないかな。だから絵描きとして描くという行為の上に美術というものが成り立っているんじゃなくて、すごく根の深いところで、人間が生きるためのコミュニケーションのための一つの手段が、絵を描いたり歌を歌ったりすることなんじゃないかな。」

*小林健二著「ぼくらの鉱石ラジオ(筑摩書房)」

ーここしばらく本の執筆もあって、あまり個展を開催されていませんね。

「作品は作っているんだけど、ひそひそとやるのが好きなんです(笑)。正直、それがぼくの問題だと思う、良くも悪くも(笑)。・・・」

 

 

『夜と息』1986年より「見えない展覧会」として秘かに執り行われた活動の一端をテーマにしたもの。その内容は詩集のような形で著した「みづいろ」に詳しい。

*小林健二著「みづいろ」より『夜と息』の頁。この後にも何ページか続いています。以下抜粋
ここの処何年か、眠れぬ夜などに募(おも)いが募り、いつかこの寂寥感を解放して行かなければ身も心も窶れてしまう。その法を行うについて、不当とは知りながらも、時期(とき)は今成り、と思い試みる。・・・

*2016年6月にトークと合わせてミニライブが行われ、その時の画像です。

“Erbium” written and vocal+guitar by Kenji Kobayashi from Kenji Channel on Vimeo.

 

*1998年のメディア掲載記事より編集抜粋しており、画像は新たに付加、キャプション*印部分はこちらで記しています。長い記事のため今回は前編とし、近日中に後編をアップ予定でいます。

KENJI KOBAYASHI

リアリティの解明

小林さんの仕事に関して、まず特徴的なのはその活動の広さ、例えば、美術の中だけでも様々な方法を取られているし、他に音楽、映像、文章など様々な分野に渡っていますが、そのあたりご自分ではいかがですか?

「ものを作ったり表現しようとする上で、何か規則や取り決めがあると窮屈に感じてしまう。一人の人間として生きていたいと思い、その発露として何かを作りたいと思うから、方法や様式に無理に当てはめようとは考えていない。」

[ETAPHI] VIDEO WORK:KENJI KOBAYASHI(小林健二映像作品) presented by PICTURE LABEL & Music Design

[ETAPHI]
VIDEO WORK:KENJI KOBAYASHI(小林健二映像作品)
presented by PICTURE LABEL & Music Design

{SUPER DORMEN] mixed media 4500X3200X2200(mm) 1987 会場に巨大なモニュメントのような作品を製作し、その下のモニターでビデオ作品を流した。

[SUPER DORMEN]
mixed media
4500X3200X2200(mm) 1987
会場に巨大なモニュメントのような作品を製作し、その下のモニターでビデオ作品を流した。


“Erbium” written and vocal+guitar by Kenji Kobayashi from Kenji Channel on Vimeo.

*上記は中学生の時に作った音楽を2016年6月のトークショーの時に、オマケミニライブとして初披露。その時の動画です。(ライブ映像に新たに画像を足して編集)

銀水色版[みづいろ](愛蔵本) 体裁:B6変形/上製本/P136/活版印刷/函入り  装丁:小林健二 見返し及び挿入紙は、巻き見返しという技法を使い、本のノドまで自然に開くとこができます。また函は丸背の本がきれいにおさまるように、天地部分を同じような丸みでカットしてあります。全体に白くあえかな感じでありながら、しっかりとした美しい本です。 1993年に松明堂極光書房より発行されましたが、長らく品切れとなっておりました。其の後よせられた要望により、銀河通信社版として2005年に銀水色の活版印刷にで出版されました。 (これは実話にもとずき、綴られた本です。小林健二が子供の頃よりノートなどに書き留めていた「みづいろ」や「銀の水路」は、1979年に一度まとめられました。それを「夜と息」を加え1993年に「みづいろ」として出版されました。)

銀水色版[みづいろ](愛蔵本)
体裁:B6変形/上製本/P136/活版印刷/函入り 
著者+装丁:小林健二
見返し及び挿入紙は、巻き見返しという技法を使い、本のノドまで自然に開くとこができます。また函は丸背の本がきれいにおさまるように、天地部分を同じような丸みでカットしてあります。全体に白くあえかな感じでありながら、しっかりとした美しい本です。
1993年に松明堂極光書房より発行されましたが、長らく品切れとなっておりました。其の後よせられた要望により、銀河通信社版として2005年に銀水色の活版印刷にで出版されました。
(これは実話にもとずき、綴られた本です。小林健二が子供の頃よりノートなどに書き留めていた「みづいろ」や「銀の水路」は、1979年に一度まとめられました。それを「夜と息」を加え1993年に「みづいろ」として出版されました。)


CRYSTAL-ELEMENTS from Kenji Channel on Vimeo.

組曲[結晶]:suite”Crystal” composed by Kenji Kobayashi・published by RUTIL TWIN RABEL

*1980年頃よりカッセトテープなどに録音してきた小林健二の曲の数々を、2007年にCDとして編集しました。その音楽と小林の結晶作品[CRYSTAL ELEMENTS]とのコラボ動画です。

 

一人の人間として生きていたいとおっしゃいましたが、表現したいと思ったその時に、観客は小林さんにとってどんな存在なのですか?

「難しいことだから、すぐにはうまく答えられないんですが・・・まず自分の心の中に湧いてくる、それまで見たことのないヴィジョンや世界を、とにかく物質化したり具体化させて自分がまず見て見たいという欲求がある。それからきっと作り始めるけど、最終的にはそれで人や外界とのコミュニケーションの手段になるという思いがあるから、もし自分がたった一人で山の中で暮らしているとしたら、作るという必然性がぼくの中の個人的なものだけになってしまうと思う。だからぼくにとって社会との関係をはっきりさせてくれるような・・・。」

絵画技法はどう修得したのですか?

「絵画技法というとぼくの場合、どこまでか分からないけど、ぶきっちょコンプレックスが色々な道具を集めさせたり、好奇心が強いから色々調べ物をしたりすることも、結局は自分の興味のあるがままにやっているから、何においても独学になっちゃう。」

多くの作家はイメージをどう物質化するかで悩むと思うのですが、小林さんの場合はどうですか?

「それは難しいですよ。イメージと現実化した作品との間には多くの嘘も出てきてしまう。ただその「うそ」を積み重ねていかに「ほんと」に近づけるかということなんでしょう。」

作品集の中に「今あるものは、死が支えている」という小林さんの言葉が大変印象的だったのですが、このことについてもう少し説明してください。

「ぼくたちが着ている服の素材にしても、毎日食べているものにしても、ぼくたちの生活に欠かせないものはほとんど、動物や植物たちからもらったものでしょ。生きているものは、その命を投げ出してくれたものたちに、まさに支えられているんじゃないかな。だけど、スーパーに置いてあるきれいにパックされたものしか知らなかったら、その死の存在を想像できない。命が奪われるというドラスチックな光景をまのあたりにしていたら、その命への感謝は自然に生まれるだろうと思う。「死」から目を背けるような社会全体の流れがあるかな?

人間は自然を凌駕するのではなく、調和すべきだと目覚めてきた現代。

でも昔から日本人は自然や天然とともに生きて来たと思っている。それをあえて「反自然」へと生活の方向を変えて、素晴らしい過去の知恵を捨ててしまっているかのようだ。

木を切り倒すとき、木はなされるがままに、まるで拒むことなどないかのように死んでゆく。でもそんな時に木の叫びのようなものを聞いたような、そんな気持ちが人間の心の中に起こったら、やはりむやみに切り倒してはいけないんだという思いもわくかもしれない。

なぜ宇宙があるのか、終わりがあるのか、なぜ生きているのか・・・。難しい問いの前に、ぼくらの日常の流れに「死を意識することで、知ることができることがある」と、生の意味を変えてくれるように思う。」

「私たちは自分たちの故郷を鉛色に変えつつありながらも理想郷をいつも夢見ている。」 木、鉛、鉄、紙、電子部品、キャンバスに油彩(電磁石を使った特殊な仕掛けにより前にある作品の球が浮いている) 2300X1300X2000mm  1989

「私たちは自分たちの故郷を鉛色に変えつつありながらも理想郷をいつも夢見ている。」
木、鉛、鉄、紙、電子部品、キャンバスに油彩(電磁石を使った特殊な仕掛けにより前にある作品の球が浮いている)2300X1300X2000mm 1989

リアリティということに対してどのようにお考えですか?

「リアリティ・・・・その言葉の意味がちょっと分かりづらいけど・・・。でも自分の生活に強く影響を与えた体験はあります。それは中学生のころ、不眠症が続いた後、一瞬の眠りにつくことができたとき、よっぽど今のこの現実より現実的な感じというか・・・その瞬間に体験したことがものすごくリアルだったんです。

光の粒子によって自分もその中に還元されていうような気持ちになった・・・。

その後童話のような文章を書いた、それは「ひかりさえ眠る夜に」と言って、ちょうどこんな感じなんだけど。

最初光しかない宇宙があって、時間も距離もない。だけど、宇宙自身が「自分とはなんだろう?」と思った時、光の一部が物質化するために集まりだし、光の速さでさらに外側に広がるから、人にはきっとビックバンに見えた。この光量子、高分子化してゆく事象には、細胞や多細胞を過ぎて小動物や人間に至ってもその存在への疑問は残される。光としての自由なイメージは残っていても、人はなかなか自由ではない。でもいつか全ての疑問が消えて光に戻ってゆく。実は自由な光が深い物質化の眠りの中で見たものが、ぼくたちのこの現実だという内容。結構この光の最初の願望こそが、生物が共有できる感覚ではないかと今でも変わらず思っているところがあるんです。」

*1991年のメディア掲載記事より抜粋編集し、画像は新たに付加しています。また「ひかりさえ眠る夜に」という個展が福井市美術館で開催された時の会場画像と図録に書かれた小林健二の文章を同時に下記します。

[ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT-ひかりさえ眠る夜に] 2003 福井市美術館での個展

[ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT-ひかりさえ眠る夜に] 2003
福井市美術館での個展会場の一部

個展の詳しい内容はhttp://www.kenji-kobayashi.com/2003onanight.html

 

15才のときの出来事

「ひかりさえ眠る夜に」という言葉は、高校1年の頃の原稿用紙やノートに書いた童話っぽい物語から、タイトルをそのまま使ったものです。その文章を書いたきっかけと言えば当時見た「夢?」あるいは白昼夢のような一連の幻によるもので、しかしそれは夢と言ってもいつも浅い眠りの時に見るものとは大きく異なっていて、ぼくを驚かせ、印象的で、子供の頃から惹きつけられてきたすべての要素を持っていました。

その一連の経験は、何か神秘的な宗教体験とも思えないし、自分の上にだけに起こった特別な出来事とも考えませんでしたが、その鮮烈な衝撃はまるでローラーコースターに乗っているような強い興奮と、あたかも深海の中でしばらく気を失っていたかのように感じる神妙な気持ちがないまぜになって、ぼくを混乱させました。しかしながらそれは同時に、その後今に至るまでにも他には無い陶酔感をぼくに残したのです。

この客観的に観たら目立ちたがり屋の作り話に感じられるだろうことについて、自分なりにいろいろ考えたものです。

ぼくは中学の頃より不眠に悩まされ、幾種類かの薬を服用していたために、その副作用による一種の幻覚であったのかもしれないとも思え、専門医に相談したこともありました。彼は少し笑いながら「君の薬には君に夢を見させる力があるとは思いづらいけど、それが君にとって良い夢ならよかったんじゃない?」と軽くあしらわれた感じでした。

15才と言えば、楽しい事や悩みなども友人や誰かと共有したいととりわけ思う年頃だったと思います。しかし、ぼくはその「夢?」について誰かにすぐに話を聞いてもらおうとはしませんでした。

それにはわかりやすい2つの点があったからです。1つ目には「どんな友人だって他人の夢などにとても興味なんか持てないだろう」と思ったことと、2つ目に、その出来事について話すとするとぼくの表現力や語彙はあまりに稚拙だと知っていたからです。

しかし、その体験は一人のちっぽけな人間にとって、その後の生き方に確かに何がしかの影響を与えたのです。つまり幼い頃、兄からもらった望遠鏡で月や星を見て将来天文学者になろうと考えたり、タテ笛が好きだったというだけで笛吹きになろうと夢想したり、そんな風見鶏のように日々の関心で変わるそれまでの気分屋を、その出来事が何かの方向を探し続けたいと、非力ながら考えさせはじめたことは本当でした。

子供の時から絵を描く事は好きではあっても怪物やジョウロのようなへんてこなものしか描かない人間が、できるならずぅっと絵を描いていたい、そして宇宙や星の涯にある世界の事を考えたり、あるいはまだ巡り会えないでいる誰かや何処かのことを想い続けて手紙を書くような、そんな途方もないことをやり続けたいと勝手に確信してしまったのです。まさにそれほどその「夢?」はぼくにとってすばらしく、また美しかったのです。

ぼくは時々「夢見がちな人」というような評価を受けることがありますが、それはどうなのだろうと思いもします。なぜなら絵を描いたり、造形作品を作ることは思いのほか現実的です。技術的にも時には経済的にも時間的にも、あらゆる面に於いて生々しい壁は立ちはだかるものだからです。

でも、ぼくはこの仕事を通し子供の時からの内省的な自己を、外の世界と交通させたいと願ったわけですから、確かに「夢見がち」なのかも知れません。

人間にはもともと「本当の事」を探し続けようとする一種の特性のようなものがあって、それはまた人間の本質的なところでもあるとぼくには思えることがあります。でもそれによって人が担う事もたくさんあるのでしょう。「この世」と人間が感じているものが、人間のためにだけ存在しているとは思いづらく、逆に自分たち人間の社会を支えるために多数のものを犠牲にし、その上に成り立っている事を多くの人間たちは知っています。ですから人間がこの世の全体的成り立ちに就いて思考する努力を惜しんでしまったとしたら、この地球から人間がある日消え去ってしまった方がどんなにか、この星を楽にするような気がしてしまうのです。

約半世紀を生きている自分が夢のことを人生にまでふくらませて話していることが、どれほど愚かしく思われても仕方の無い事と十分にわかっているつもりです。しかし、的確なことばを見つけることはできませんが、「神」と一言で呼ぶことができない、この世を知りたいと願う「何か」によって深い眠りについた「ひかり」たちの夢の一部に、ぼくらの知る世界があり、それによって「この世」は生まれたと感じるような子供たちが世界に広がったとしたらどうなのか想像してみたいのです。この世界がすべて「ひかり」によって夢見られたものであるとしたら、いかなるすべての人の目や心にとらえ得る世界は、それこそ世界が探し続けているものであり、ひとりぼっちで風景を眺めていることも、どんなに辛さを感じている時でさえ、それはこの世が探していることの断片を常に担っているのであり、意味の無い人間は誰もいなく、またいかなる瞬間も必然性を孕んでいるということではないでしょうか。

すべての始まりはひとつのもので、あえていうなら「時間」という奇跡によって変成しているようにみえる現象であり、自も他も無く本来とても深いところで「全く同じもの」だと認識したら、その子供たちの心に宿る世界には「差別」、「戦争」、「略奪」といった、自分が自身をまるで奪い合い傷つけ合うのと同じ事が、どれほど無意味な事とその瞳に映るのではないでしょうか。

それこそ「ひかり」のもと居た場所までは、まだまだ遠いところであったとしても、そんな探すべき何かを知った子供たちや大人たちが地球人であったとしたら、それは遠メガネみたいに小さなものでも無数に集まれば巨大な望遠鏡となるように、まるで色とりどりの花々が空を見上げているように思えるでしょう。

宇宙は広く果てしなくても、きっと人間は孤独ではなく、友人たちはお互いに探し合っていていつか出会える筈だからです。

宇宙がそれぞれを発見し合い、それぞれの多くの謎を解き明かし連帯し合い、不変で永遠な最も安らいだもと居た場所へと還ってゆくようになったとしたら、それはとても素敵なことに思えるのです。

あの15才から30年以上経った今でさえ、偶然に出会った一連の夢のような出来事から与えられた記憶の方が、少しも色褪せる事もなく日々生活している日常より遥かに生き生きとしていて、表しきれない「本当の世界」のような気がしてならないのです。

小林健二

*[ひかりさえ眠る夜に-ON A NIGHT WHEN EVEN LIGHT HERSELF SLEPT]図録より

 

KENJI KOBAYASHI