ーイメージとして求めるものによって、 結果もプロセスも全部が変わる。
(小林のアトリエで 小林自身が工夫して作ったり、中古て買い集めたおびただしい道具を見たり、道具にまつわる話を聞くのは興味が尽きないものがある。)
道具や工具というのは色々ある 。それぞれの適材・適所・適性で使ってやれば、とにかく色々なこ とをしてくれる。何をしてくれるかといえば、やっぱりその人のイメージをより具体化し、現実化することによって 頭の芯にしかなかった何かわけの分からないものを自分にも、自分以外の人にも見せることができる言葉に置き換える翻訳機械である、そういう感じがしてますね。
ただ 道具についていえば、ここに世界中から百人の人を呼んで、例えば30センチ角の同じ木を与え、3センチ角の深さ10センチの穴をあけるのに自分の好きな道具を選んでやりなさいと言った時 みんな同じものを選ぶわけじゃないよね。
生活のスピードや手の大きさ、経験や老若男女でもちがってくると思う。色んな要素があるから、逆に道具の方がそれに合わせようとして増えていくわけでしょう。そうすると極端なことをいえば、人の数だけ道具があるって考えてまちがいないんですよ。もっと話を進めれば、素材と道具と技法、この三つは本当に深く結びついている。例えばここに一つの石を切ることを考えたら、それをとにかく速く切断したいか、ゆっくり自分の思った形にしたいか、それだけで道具も技法も変わってくる。
すなわち、イメージとして求めるものによって、結果もプロセスも全部が変わる。だから素材・道具・技法というものを短絡的に目的というか、イメージも考えずに並べれば、この素材を切る時はこの道具でこんな方法でってことが言えても実際の場では必ずしもそれで説明したことにはなりえないことがあるわけですね。なぜなら、実際作る上で一番大きいのは、ものを作る間でも実は学習しつつあるということなんです。もし機械製品を作る会社で、製品も数量も何もかも決まった行為の中て成り立つなら、それでいいんですけど 、ぼくは今 あくまで個人的なレベルてものを作る人聞のことを頭において話してますから、それは決定事項にはならない.。
これも例の一つですけど、自分はザラザラした表面のものを最終的に作りたかったとしますね。それで何か工具を使って作ったんですけど、その工具で切削したら、きれいな切削面ができた。そして、その切削面が きれいだというそのこと で、これまた二つに道が分かれるわけです。
「ああ こんなにきれいに切れる 、こんなにきれいな切削面がすごくいいんだな」って思って、それで新しい発見をしたこともあるでしょ う。でも 逆にその発見に流されてしまって、最終的に自分の思っていたイメージよりも、切削面がきれいだったが故に全部をツルツルにしてしまって、作ったものが自分の最初のイメージと全然かけ離れたものになるってこともあるわけですね。ただ それがかえっていいこともありますけど、途中で学習したことは学習したこととして一つ抑えといて、最終的に自分の作るものは、最初に作りたかったものに導いていくってことも あるわけですよ。だから 道具に使われてしまうってことも、どちらがいい悪いの問題じゃなくて、そういう要素がものを作っていくと多分に出てくるでしょう。それを自分の中でうまく振り分りて、自分が最初にやりたかったことをそれなりに見ていく。ただ 最初にやりたかったこと以上に意にそうものであれば、そっちを選択すればいいわけだけど、結局 ぼくみたいな有機的な作品を作る人聞は、機械の作る機械的な肌に最初一瞬ひかれることもあるわけですね。でも、それに行ってしまって、最終的にできあがったものが自分の作りたかったものと全然ちがってしまえば、イメー ジの意味がなくなってしまうわけですね。だから、途中なら途中で、切削面がピシっとしたいと思うときは、この機械はいいんだなって分かるわけだから、後々のためには大事なわけですよ。
それと道具を選ぶ場合など、最初からあまり切れないノコギリで、コリゴリやって苦痛を感じた人と、気持ちよく切れた人とでは、その後に与える影響はずいぶんちがう。確かに道具の問題だけではないけど、決して小さくないことだと思う。いいノコギリは無頓着に使えば、折れもするし歯もこぼれる。大事にしないとならないけど 安くはないという理由だけじゃなく、少しずつわいて来る愛着は素敵なものです。あくまでもぼくの考えですが、最初からいい道具を買って、それをずっと大切に長く使おうってことの方が無駄がなく、またその道具に対する接し方なんかも変わってくる。ケースにもよるけどね。だからその場合はいい道具とは何かを知らなければいけない。そのためには、それを知ろうとする行為もまた出てくるわけですよ。それだから、ぼくみたいに大ざっぱで掃除もしない人間がね、カンナ研いだり、刃物調整したりとか、工具の手入れをほんとにやりますよ。メンテしてやるのは、そりゃ一生懸命働いてくれたから、ホコリとってあげたりね。だから、ぼくの使ってる道具は みんなきれいだと思う 。使いこまれていくからね。手入れはほんとに好きだよね。
(ものを作る行為 が、 個人のレベ ルで問題にされるかぎり、道具も当然個別化される。自分の目的に合わせて、その都度、その局面での道具が具体的に必要とされるということだ。それは、作る喜びと苦しみの中で出会える道具とのかかわり方と言えるかもしれない 。小林の道具論からは、精神と物質をとり結ぶ 道具に注がれた愛情あふれる連帯感が伝わってくる。)
( )内は質問者であり、インタビューをまとめた十川氏のコメント
*1992年メディア記事より抜粋(画像は掲載された写真の中より一部を紹介しています)