幼い頃から透質のものが好きでした。さざれた硝子の破片や透明性さえあれば取りあえず何でも好きになったのです。
プラスチック製の宝石も消しゴムも、クラゲや下敷きでさえ、そのようなものたちを光に透かして見ているのが好きだったのです。ですから科学博物館で水晶と出合った時は、まさに心を奪われたという感じでした。
二十年くらい前「鉱石ラジオ」というものにのめり込んだ時期がありました。そんな折、工作を楽しんでいる中でクリスタルイヤフォンは自作できないものかしらと思ったのです。「クリスタル」というところに取り分け惹かれたのです。
それはちょうどミョウバンや塩の結晶を作るように、ロッシェル塩という物質で行うものなのですが、ぼくは当初の「圧電効果を供なう結晶」を作るということよりも、水溶液の中に析出してくる透明な結晶の方に不覚にも再び心を持って行かれてしまったのです。さすがにこの結晶は見つづけていても見る見る成長するということはありませんが、日に日にその変化を確認することはできます。やがては薬品問屋の方からも今月は何ですか?と言われる程多種の成分での結晶育成を試みるようになってしまいました。
透き通った赤や青、黄や紫、緑やピンクといった色々なものから、水晶の群晶のように無色の柱状のものもあれば、蛍石のように四角いものなど様々な形のものまで、まさに「安定した生活」を投げ打っての自己中心世界旅行真っ最中であったのです。
そんなある日偏光フィルターを使って結晶を接写している時に、結晶先端の溶液に靄のようにゆらいで見えるものを見た気がしました。一つの幻であったのも知れません。しかしそのイオンの流れのように見えたかも知れない何がしかの働きが、溶液中に結晶を析出させていることは間違いないことです。ギ酸ストロンチウム二水和物やクロム酸リチウム三ナトリウム六水和物、硫酸プラセオジム八水和物といった一般的にはおそらく聞き慣れない物質たちが、まるで天然世界の気の遠くなるような時間の中でなされる神秘の光景を、かいま見せてくれたように感じたのです。
それは無生物と言われる彼らの世界に何か美しい姿を現わす一つの技術や感性を想起させてくれたとも言えるのです。言い換えるのなら、感性という溶液の中で析出し育成してゆく技術とでもいうのでしょうか。
便利さや利益、ムダや競争とはかけ離れた、ただ美しいというだけの世界であっても、美しさとは何かといった一言では語りつくせない多様な要素を孕んでいると考えた時、自分を含む人の世は彼らからはどのように写っているのだろうと、ふと想ったりもしたのです。
結晶+撮影+文:小林健二(2005年のメディア掲載記事より編集)