「プラモデル」はぼくにとって工作世界に触れた最初のできごとでした。家の近くにあった「ステーションホビー」という模型店で、ハセガワの零観機を百円ほどで買ったのがきっかけでした。プラモデルという呼称は、確かマルサンが付けたものだと記憶していますが、まさにPlastic Scale Modelより日本人にとってはぴったりする気がします。プラモデルは趣味工作の中でももっともポピュラーなものと勝手に思っていますが、とりわけても飛行機のプラモは今でさえとても魅力的です。
子供のころから車や戦車、船、飛行機などと、少なからずそれぞれの好きな世界が現れてくるもので、ぼくは飛行機専門でした。今回、いくつかのプラモん箱絵を紹介したく思いますが、趣味としてはまさに一人一人、偏って当然と寛容な心で眺めていただければ幸いです。
そんなわけで、ここに揚げるものは何千、いや何万とあるやも知れぬ一滴で、しかもぼく自身、特別コレクションしているわけでもないので、昭和30年代から50年代ころの手近にあるプラモの箱絵を楽しんでください。
さて、一方的にぼくの趣味について言わせていただくと、「レシプロの大戦機でスケールは1/72」ということになります。ただ昭和30年代にあってはある意味で、同じような趣向の方も何人かはおられるでしょう。
当時の飛行機のプラモについて言えば、国産ではハセガワ、マニヤ、エルエス、ニチモ、アオシマなどが記憶に残っており、次いでタミヤ、オータキ、フジミという感じです。外国製では、レベル、エアフィックス、モノグラム、フロッグなどがポピュラーで、ウイリアム、エレール、イタレリ、デルタ、そしてリンドバーグという感じでした。
ほかにもレンウォールやオーロラなど数社はあっても、好みのタイプが出ていないとどうしても目に入りません。
最初のころは零戦をセメダインでベタベタに組み立て(?)た後、当時小さなガラスのビンに入っていた、おそらくマルサンあたりのプラカラーで(8色入りくらいの)色を塗り、さらにめちゃくちゃにしてしまい、筆がすぐに固まって、とても工作をしていたというものではありませんでした。でもそんな思い出がある方は結構多いのでは?
やがて小学校も高学年になるころには、大物にも挑戦したくなりましたが、なかなか高額で手が出ません。そんな折、13歳違いの兄がハセガワの「連山」を誕生日にプレゼントしてくれたのがダメ押しとなって、恐ろしい「プラモヶ沼」に足を沈めていくこととなりました。
その上に『モデルアート』と出会い、ああ、もはや飛行機モデルの中に埋まる暮らしがいまだに続いているわけです。もちろん和紙を貼って作るゴム動力の角胴の模型飛行機やソリッドモデルにも手を出し、神保町まで行っては『モデルアート』のほか『丸』、『航空情報』、『航空ファン』や海外のプラモ雑誌を読み漁りました。
内外のプラモデルメーカー
当時すでに二式大挺がラインアップしており、さらに一式陸攻や九七式大挺(いかにもリスクが高そうな大物)などを発表していくハセガワには、子供ながら、誰でも知っている人気のファイターばかり作っているところと比べ、並々ならない敬意を持っておりました。今はなくなってしまったマニヤやエルエス二至っては「すばらしいキットですね、説明書をください」と勝手な手紙を書いたりしました。それは風邪などをひいた時に『モデルアート』やプラモの説明書を見ていたりするのが好きだったからです。記憶ではエルエスからは有料でお分けできるとい連絡をいただき、マニヤの方はそのころ会社がなくなったようでした。
そのほかレベルやエアフィックスはずいぶん作り、フロッグやエレールも手がけました。しかしどういう因果か不明ですが、当時のアオシマやリンドバーグについつい手が伸びてしまうのです。この二社には、そのころある意味で似かよった魅力があって、ある種の人をグイグイと惹きつけてしまうのです。
それはこれらの会社しか出していないような珍しいキットが多くあり、いや、もっと言うと他社が作らないようなものばかりと言っていいくらいでした。ところがそのキットの仕上がりはというと、あるモデル雑誌によれば「せめて左右胴体のハマリの位置だけでも合わせた方がよい」とか「またしてもキャノピーは氷砂糖!」とか評されているのです。けれども箱絵がいい、まったく個人的に!思わずそのほとんどを当時作ることと相成りました。
そこへ行くと、現在のインジェクションの技術はすばらしく、そのはめ合わせ制度がたかいので、接着剤がいらないのでは?と思わせるほどで、表面のスジ、シボリ、リベットの表現、材質感にいたるまでほとんど限界に近づいていると感じます。しかしながら、その高精度なモデルを見ると、胃が痛むような、かえって作ることへのプレッシャーを感じてしまうこともあるのです。
ここに揚げるプラモの箱絵たちはとても大らかに、かつてぼくを受け入れてくれたものたちです(できるなら当時850円の緑色の「連山」なども見てもらいたかった)。趣味とはどうしても個人的な思い出の宝庫となってしまいます。そんな気持ちのまま、これらのすばらしい、ときにへんてこで魅力的なキットを作ってくださった会社の人々のことを想うと、彼らは当時、ぼくも含め多くのそれほど豊かではなかった子供たちに思いっきり夢と楽しみを与えてくれたと思うのです。
かつてあるプラモ雑誌に「工場訪問」というような記事があって、それを何度も何度も読み返しながら、そんな夢を作れる仕事を招来してみたいと願ったとこがありました。そんな工場で夢を生産していた方々にこころから感謝と敬意を込めて「ありがとう」と今ここで伝えたく思います。
小林健二
極私的ープラスチックモデル史
プラモデルは日本では昭和37,8年ころ第一次ブームがあったと言われている。飛行機モデルで言えば、欧米では昭和20年代には一般的になっていたプラモデルのコピーから始まったらしい。
このへんは戦前に日本で最初の模型飛行機店「?(のの)屋」を明治41年に神田今川小路に開業した野辺地四郎氏が、アメリカから模型飛行機を持ち帰ったことに始まるのと同じ経緯かもしれない。
当初のプラモデルは1/72が主流となるまでは1/100,1/50,1/64などいろいろなスケールのものが多かった。僕が作り始めた昭和39年ころ、ハセガワやエルエスには1/75と書いてあったが、その後1/72と表示だけが変わっていく。
またそのころは全可動式というモデルも多く、エルエスの零戦などは小スケールなのにキャノピーが開閉できたり、フラップ、エルロン、ラダーも動き、脚も引き込みできたと記憶している。
ただアオシマの「彩雲」いたっては実機にない翼折りたたみ機構があって多少混乱した。
しかしながら、時代的に何もかもが現代と違っておおらかだった気がする。塗装の色なども日本機については海軍でも陸軍でも上面緑色、下面灰色と書いてあったりするだけであったが、その後、海軍式暗緑濃色、下面淡明灰白色となったりして、かえって子供ごころにボーゼンとしたこともあった。
人によって工作の難関や難易度は違うだろうけれど、ぼくにとっては、キャノピー枠塗りが一番の山で会った。なぜなら、その出来・不出来がモデルの見栄えにかかわってくるからだ。今でさえ、工具や工夫に重点を置くのは天性の不器用のなせる技で、そういう人間こそ深入りしてしまうものなのかもしれない。
やがて国産のモデルも多数作られ、種類も増えたが、やはりモノグラムやフロッグの高級品は高価で高音の花だった。しかしハセガワがフロッグと、 タカラやグンゼがレベルと提携したりして、輸入品も手が届きやすくなった時期もあった。
小林健二
とても懐かしいものを拝見しました
今でも手元に残っているもの 既に捨ててしまったものなどいろいろで
取っておけばよかったな などと思い返しながら見てしまいました
モールド技術が向上した最近の製品ですが 雰囲気は昔の荒っぽいものの方が良く再現していた
ような気がするものも多いですね モノグラムのDo17Zなど再販し貰えると嬉しいですが
taiseitrading.corpさま
コメントありがとうございました。ずいぶん経ってからの返信で失礼しております。
プラスチックモデル、確かに最近のものは精度が高すぎて、作る人なりの味のようなものを出すのが返って難しいですね。
なので誰でも同じようにできる、反対に同じにしかできない。
人の手なりが出せる余地も欲しいな、感じる方には、一昔前のプラモの方が面白いかもしれないですね。